資本主義に替わる理想的な社会システムと未来のビジョンを提示します
第四章 新社会システムが実現するであろう社会像
ここまでの説明で、日本がこの新しい社会システムを導入したら、どのような社会になり、私たちの暮らしはどのように変わるか、イメージしていただけたでしょうか。この章では今までの理論の復習と、言葉足らずだった部分の補足を兼ねて、生体社会システムが実現するであろう社会のシミュレーションをしてみます。
私の知る限り、政治家も評論家も未来の青写真を明確に描いている人はほとんどいません。当面の政治的な課題をどのように解決するかのみを議論しあい、東奔西走しているだけです。いわばその場しのぎの政策であって、穴が空いている所や空きそうな所にパッチを当てているのに過ぎません。
橋下徹大阪市長を代表とする大阪維新の会は、大阪都を目指すという青写真を描いて、その目標に向かって一心不乱に突き進んでいる姿が人々に勇気を与え、支持を得ています。新しい社会システムである生体社会の実現というのは、大阪都構想よりももっと壮大な計画です。力もなく、知恵もなく、資金もない私がひとりで成し遂げられるものではありません。
私の最終目標は全世界がバイオミメティック社会論に基づく社会となり、貧困も、飢えも、戦争もない社会を実現することです。せめて、日本やこの新しい社会システムと相性の良い国だけでも、このシステムが採用され、全ての人が貧困とは無縁の生活を送ることができるようになればと心から願っています。
ここで、生体社会の青写真を示し、後の章でそれを実現するにはどのようにすればいいかを考えていこうと思います。生体社会システムの考え方はオープンソース(open source)的です。オープンソースとはその仕組みを無償で公にして、誰もがその改善に参加できるようにすることです。私がここに示した基本となる考え方、つまりバイオミメティック社会システム(身体の仕組みから学ぶ)という考えを基調として、経済学者だけでなく、知識人、政治家、医者などの知恵を結集し、より良い社会を創造するためのプランを構築したいと考えています。そして、本書がその叩き台となれば幸いです。
政治家レベルの外交や資本主義経済下での貿易の場合、Win-Winの関係はなかなか成立しません。外交は国益と国益のぶつかり合いですし、外交を有利に進めるために軍事力や経済力があるという面も否定できません。政治家などが日本の国益を語る時、相手側の国民に対しての配慮はありません。今回勝っても、次回は負けるかもしれません。資本主義を続けている以上、この呪縛からは抜けられそうにもありません。しかし、生体社会システムが広まれば、全世界が協力して、全ての国が幸せになるというシナリオも決して夢物語ではないと信じています。
理解を深めるためとこれまでの復習を兼ねて、この章はストーリー仕立てで説明したいと思います。ここまでは騙されないようにと眉に唾をつけながら読み進めてきた人も、この章は空想小説だと思って、肩の力を抜いてお読みください。
日本国民の英断に世界各国は熱い視線を投げかけている。他の資本主義国家も、格差問題、財政問題など、資本主義が完全に行き詰まり、誰もが出口を求めている状態だったからだ。
以下は、海外ジャーナリストが資本主義を脱却して数年経った日本で、様々な職種の人にインタビューをした結果をまとめたものである。
これまではノルマがあったので、実のところはお客さんに最適な商品を薦めるのではなく、より高額な商品や利益率の良い商品を薦めていた。最初は少し心が痛んだが、この仕事をはじめて数ヶ月経つとそのささやかな良心の呵責もなくなってきた。
でも今はノルマがないために、お客さんのライフスタイルにあった商品を薦めることができ、お客さんも喜んでくれ、とても気持ちがよく、仕事にやりがいを感じている。商品の説明に熱がこもりすぎると、お客さんから「あなたは本当に家電が好きなのね」と笑われることもあるぐらいだ。自分の好きなこと、得意なことで社会に貢献でき、生活できることはとても有難いと感じている。
1日の労働時間も7時間に減った。以前はサービス残業が当たり前で、家には寝るためだけに帰っていたような状況だったので、1日の労働時間を比べてもずいぶんゆとりがある生活になったと言える。家電量販店同士の価格競争のしわ寄せは私たちのサービス残業という形となって現れていた。それだけでなく、それまでは月に2、3日程度しかなかった休みが、今では逆に週に2、3日程度の出勤で済むようになった。給料は生活に困らないだけあるし、生体社会の社会は社会全体の効率化により物価が安いので、むしろゆとりがあると言っていい。値引きを強要するお客さんもいなくなり、他店との価格の比較も不要になり、過剰な広告費とそれに関わる人件費も抑えられ、仕事にゆとりができた。
私たち販売員だけでなく、上司の仕事も様変わりした。以前の上司は接客をせず、バックヤードの事務所でパソコンモニター上の売上表とにらめっこすることだけが仕事だった。仕方ない、彼らも私たちと同様に、上司からノルマを課せられていたからだ。今は彼らもそのノルマから開放され、部下に叱咤激励する仕事、売上管理の仕事、広告の打合せ、販売戦略会議などの仕事がなくなり、仕事量が激減したために私たちと同じ売り場に立たざるを得なくなった。彼らも以前は売り場を経験しているのだが、長らくそこから遠ざかっていると、また売り場に出てくるのに勇気がいったようだ。客が怖いということと、より低レベルの仕事に移ったようでプライドが傷つくということがその理由らしい。しかし、それもすぐに解決された。なぜなら、売り場の仕事にやりがいがあるからだ。彼らは今ではこう言う。「今までの仕事は心からやりがいがあるとは言えなかった。でも、今は社会に貢献している、有益な仕事をしているという充実感、自分が必要とされているという満足感があり、若くして新社会システムで働ける君たちが羨ましい」と。
これは消費者にとってもいいことで、どこが安いかという比較に膨大な時間を取られることがなくなり、わざわざ少し安い店に時間とガソリン代を使って買いに行くということもなくなった。
だが、さらに上の管理職は面白くないらしい。株式制度が廃止され、持株の配当で儲けるということができなくなったからだ。それに貯蓄高の上限にひっかかって、無駄に優雅な生活もできない。メーカーも統合されたので、豪華な接待を受けることもなくなった。彼らは新システムの導入に最後まで抵抗していた抵抗勢力だった。
これまでは同族経営の会社だったが、彼らは会社運営から退くこととなり、今では管理職はマネージメントを学んだプロが彼らに替わってやっている。会社は社会のものであって、個人や創業者一族のものではないので、優秀な管理者がトップに立つ仕組みができている。我が社のように外部から経営のプロが入ってくる場合もあるが、社員の中から選挙のような民主的な選抜方法で管理職を決めることの方がむしろ一般的かもしれない。
生体社会は競争をしない社会だと言う人もいるが、こうしてみると、むしろ資本主義の方が適切な競争の場が保証されていなかったことに気づく。
他の業種と同様に、現場の私たちは労働時間も減り、給料は上がった。でも、それ以上に嬉しいのはお客さんの質が上がったことだ。これまでは、ウェイターやウェイトレスは何となく下に見られ、注文を間違えたらひどく叱られることもあったし、一生懸命していても料理が遅いと文句を言うお客さんもいた。私たちに「ありがとう」と言ってくれるお客さんなどはほとんどいない状態だった。
しかし、生体社会になって、収入が多い人が偉いとか、社会的地位が高い人が偉いといった価値観から、社会への貢献度が高い人がより尊敬される風潮になった。既得権益で収入を得ていた人や、社会貢献度に比べて法外な収入を得ている人よりも、社会が必要としているサービスを提供している人が尊いという風潮になった。
これまではお金を支払う側が上で、受け取る側が下といった価値観が当然のようにまかり通っていた。生体社会ではお金が減価するため、商品やサービスをスムーズに循環するためのツールに過ぎないという認識が一般的になった。それに伴い、お金を支払う側と受け取る側が対等という価値観が一般的になった。そのため、お客さんが不機嫌でも、店員は無理な作り笑顔という従来のような状況はなく、互いに「ありがとう」と言うとても気持ちのいい職場になった。
生体社会となって、明らかにモラルが向上した。と同時に、それまで社会的地位の高かった人は実力社会の競争に晒され、実力がなく高い地位に就いていた人は淘汰されていった。その結果、社会全体から老害がなくなり、効率がよく、労働環境の良い組織に生まれ変わった。
こうした価値観の変化により、私たちもお金に対して頭を下げるのではなく、お客さん自身に対して礼を尽くす態度に変わり、影でお客さんの悪口を言う店員も減った。
株式市場がなくなるなど、そんなことは誰も想像もしなかったことだが、1602年に世界初の株式会社である「東インド会社」より以前には株式会社がなくても社会は成り立っていたのだから、もともと不可能なことではなかったのだろう。
これまでは、大きなお金を動かす自分たち証券マンは世界経済により大きく貢献していて、高収入を得る価値があると考えていた。自分たちがいないと世界の経済は回らないとさえ思っていた。1日に何億円も動かしていたから、そのように感じたのかもしれない。しかし、今では通貨が人の手によらず勝手に循環していくために、証券マンや銀行員は不要になってしまった。
私たちは最後までこの新しい社会システムの導入に反対した抵抗勢力だった。社会が変わり、今では毎月支給されるベーシックインカム(基本所得)とアルバイトで庶民並の生活を送っている。今までは自分の能力をお金を生み出すことに投入してきたが、これからは何か具体的に社会に貢献できることで、自分の才能を活かしたいと考えている。
今までは法に基づいて適切に税を納めさせることが、税の平等性を担保することだと考えていた。だから、税務署の仕事は社会の公平性に寄与する仕事だと誇りを持っていた。しかし、生体社会の基本的な考え方は「社会により多く貢献している人により多くの報酬を」という考え方だ。
これまでは税務署の仕事に問題意識を持っていなかったが、我々のやってきたことは、同じ業種間での税の不公平感をなくすことに過ぎず、俯瞰すれば職種の違いなどによって、歴然とした不平等が確かに存在していた。税務署はむしろそのことから目を逸らさせていたのかもしれない。資本主義社会でいう公正な税の徴収とは、実際に汗水流して働いて30万円を稼いだ人とその人に仕事を丸投げして何もせずに30万円を手にする人に、同額の税負担を求めることだったのだ。
生体社会になって、従来の税務署の仕事はなくなったが、多くの職員はそれまでの経験を生かして、企業の報酬が適切か、個人の収入が適切かを診断する仕事をしている。この方がよほど社会の公正に寄与している感じがする。
社会システムが替わり、無駄な公共事業は一切なくなった。建設業者は普段は仕事がなくても、一定量の収入が保証されるようになった。もちろん、ベーシックインカム以外でだ。だから、普段はのんびりと建設に関する新しい知識を学んだり、重機のメンテナンスをしたりして、仕事がある時に備えていればいい。その間に別の仕事に携わる人もいる。
最初は、仕事をしていないのに、建設業者に給料が与えられるというのは不公平ではないかと言う人もいた。しかし、必要もない道路を工事されて渋滞に巻き込まれたり、水道管修繕で掘り返して、またガス管の修繕で掘り返したりといった無駄な工事がなくなり、それが理解されるようになった。
こうした技術に対しての給与保障制度は資本主義社会でも存在する。自衛隊員、消防士、警察官などがそれにあたる。火事がないと収入がないからと、消防士が放火をすることはない。緊急事態の時に対応できるように準備しておくことが彼らの仕事であって、それに対価を支払うのは資本主義の理論でも正しいのだ。今月は火事が1件もなかったのに、消防士の給料が支払われるのはおかしいという人はいない。
そのため、建設業界は公共事業を促すだけの税金を無駄に使う業界というイメージから、専門家の立場から、必要な工事とそうでない工事を精査し、適切なアドバイスをしてくれる職人集団というイメージになり、業界全体の信頼度が高くなった。リフォーム業者も同様で、悪徳な商売をする業者もいなくなった。
人体のシステムと比較して考えれば、お酒を飲んだ時、肝臓には通常より多くの血液が集まり、アルコールを分解する。それと全く同じで、建設業も工事の必要がある時だけ仕事をし、その時は通常より多くの給料が支給されるのは理にかなっている。
建設業者だけでなく、他の多くの技術職、医者、歯科医、町工場の職人などもこのような給与体系となり、わざわざ仕事を作り出さなくても、技術維持手当が毎月支給され、仕事があればプラスで収入があるという仕組みとなっている。ただし、資格や技能を持っているだけで、社会から要請があってもそれを断り続けるとその技術維持手当を受け取る資格はなくなる仕組みになっている。だから、その技術を維持するための努力は皆欠かさないようにしている。
資本主義社会と違って、生体社会では社会に貢献できる能力をもつ人が優遇される。資本主義社会でも優秀な職人は優遇されるが、必ずしもその優秀な職人が商売の才能もあるとは限らない。むしろ、商売下手な職人も多い。そのため職人としては半人前でも、商売が上手な職人の方が多くの利益を得ることがしばしば見られた。また、職人が商売下手なことにつけこんで、安い賃金で下請け作業をさせて暴利を貪る企業が跋扈していた。
以前は、優秀な職人が金策に走ったり、商業性を考えて自分の信念を曲げた作品を作らざるを得なかったりということもあった。しかし、新しい社会では職人は仕事のことに専念することができるようになり、仕事の質も格段にアップした。
生体社会となり、全ての人の雇用が平等に不安定になった。不安定になったというか、生涯に渡って職にしがみつくことができる保証がなくなったと言った方が正確だろう。つまり、公務員や既得権益で守られた会社(例えば、電力会社)のように、いったん入社したら、自分から辞めない限り、解雇されることはないという身分保障は一切なくなったということだ。全ての人が非正規雇用といった感覚だ。
資本主義社会では非正規雇用というと、収入が不安定で、生活に困窮しがちというイメージだが、生体社会ではそうではない。給料を支払う義務は必ずしも企業にはないからだ。企業に収益がなくても、自分がした社会貢献は適切に判断され、それに見合う給料は与えられるという仕組みだからだ。
しかも、ベーシックインカムが保障されているため、職を失っても生活に困ることはない。だから、職にしがみつく必要はない。だからといって、仕事が雑になったり、無責任になったりすることはない。
これまでは、会社に不要な人材であっても、お荷物であっても、正社員だと解雇することができなかった。公務員も同様だ。正社員より能力があっても、法的に守られていない派遣社員の首が切られるという理不尽な状況が続いていた。
生体社会では職を転々とすることもできるが、一生同じ職につく人も多い。肝臓の細胞は肝臓の細胞のまま一生を終える。心臓も、腎臓も同様だ。だが、細胞は分化できる。(分化とは、多細胞生物に於いて、個々の細胞が構造機能的に変化することである。)自分にあった自由な働き方が選択できる時代になり、余暇が増え、無駄に贅沢な暮らしはできないが全ての人々が安心して文化的な生活を送ることができるような時代になった。
論語に「寡なきを患えずして、均しからざるを患う」という言葉がある。富の分配が少ないことが不満となるのではなく、分配が不平等だということが人民の不満となるという意味である。非正規労働者、下請け労働者はこの不平等が最も苦痛なのだ。多大な損失を出しておきながら、社会に多大な迷惑をかけておきながら、法外な退職金を貰う人、一生懸命社会を下支えするような仕事をコツコツとしながら、苦労して子育てをしながら貧しい生活を強いられる人。数億円を放蕩して使い果たす人、かけそばを親子で分けあって食べる人。
生体社会となり、不平等が全くなくなったというわけではないが、資本主義社会の頃と比べれば、それは雲泥の差である。
生体社会となり、今まで社会的地位が高かった人が実際はほとんど仕事ができないということが露呈したり、逆に、就職氷河期にあたって大学を卒業後からアルバイトをしていた本当に能力のある人が企業の重役になったりした。フェアな競争がこの社会にはある。これが真の実力社会だ。
生涯職人を貫いた人の職に対する満足度は高いが、サラリーマンを一生貫いた人の満足度は高くない。特に、人生の最期にあたって、人生を振り返った時、自分が残したものがローンで建てたマイホームぐらいしかないことに愕然とする人もいた。自分のサラリーマン人生を振り返って、お金を稼ぐことに明け暮れ、残したものがあまりに少ないことに落胆し、何のための人生だったのかと虚無感に襲われる人もいた。正社員という毎月決まって餌を与えられる権利と引き換えに、会社の奴隷になっていたからだ。
しかし、生体社会は会社の奴隷になることもなく、様々な職業にチャレンジする機会に恵まれるようになり、自分が本当にやりたい職業を目指す人が増え、他の人の気持ちが分かる人が増え、人生の満足度が高くなった。一度限りの人生をお金に振り回されて過ごすのはもったいない。お金ではなく、自分の人生に向きあう人が増え、快適な社会となった。
資本主義社会と同様に、作品を生み出した瞬間、そこに著作権が発生する。ただ、その著作物は原則として無償で公開され、誰でもその情報を入手できるという点が違うのだ。無料になっても、作者の名誉が失われることはない。
所得の上限があるからといって、作家のモチベーションが減るということもない。私の場合、ここ数年ヒット作に恵まれてないが、根強いファンでお金持ちの人が、貯蓄高の上限を超える予定分の一部を私に制作支援として送ってくれるので、生活には困らない。
生体社会のお金持ちの中には、上限を超えて税として持って行かれる前に、自分で使い道を決める人も少なくない。そうすることが政治参加にもなる。私は昔人間なので、「税として持って行かれる」と表現したが、それは以前の日本でのことで、生体社会になってからは、税が有効に使われるので、そういった表現をする人は稀だ。政府に信頼があるので、上限を超えるままに任せている人も多いのが実情だ。
私も仕事がら自由な発想を得意としていたが、著作物を自由に複製するという発想はしたことがなかった。そんなことをすると利益にならないと思ったが、やってみたらちゃんと利益にもなり、創る喜びも大きくなり、著作権侵害にイライラする必要もなくなり、それを監視する手間も省けるようになった。
生体社会には貯蓄高に上限があるため、成功をおさめた実業家の中には海外に移住する者も少なくなかった。そのような状況を見て、当初は日本からは優秀な経営者が輩出されなくなるだろうと予想する専門家もいたが、システムとしての完成度が高いため、優秀な経営者がそれほど必要ないのだ。しかし、教育の成果と社会の変革により、優秀な経営者が数多く育っている。
日本を出ていった経営者が優秀だったのかどうかは疑わしい。私に言わせれば、たまたま力任せに振り回したバットが運良くホームランになったような、あまり中身のない経営者も少なくない。
しかし、本当に優秀で心ある実業家は日本に残っている。それはこの社会での仕事に魅力があるからだ。つまり、彼らにとって、持て余すほどの金銭は主目的ではないからだ。私も日本に残った。大金持ちになれないことは少し残念な気もしたが、新しい社会のお金と幸福に対する哲学を受け入れた。
ここに、2005年に45万人の人を対象にして、年収と幸福の関係を統計分析した米プリンストン大学の調査がある。一般には年収が増えると幸せになると考えられているが、年収75,000ドル(日本円で630万円)をピークに、幸福度は下がっていくという結果が出た。
この社会システムの考案者はこう言った。「年収1000万円で幸せになれない人は幸せになるスキルが欠如している。だから、それが2000万円になっても、1億円になっても、自分が持っている『幸せになる才能』、『幸せであることに気づく才能』以上には幸せになれなることができない。そんな人にお金を与えるのは砂に水を撒くのと同じだ」と。
バブル時代の若者は2010年頃の若者よりも幸せだったのだろうか。異性の価値を乗っている車で判断したり、ブランド品を収集したりしていたバブルに踊らされていた人たちと、軽自動車で満足し、安いファミリーレストランやファーストフード店で人生を積極的に楽しむデフレ期の人たちとどちらが健全なのだろうか。飲み会でも、食べ切れないほどの料理をとりあえず頼む世代と、必要な料理だけを少しずつ追加注文する世代とどちらが健全だろうか。バブル期の人たちよりも、それ以降の人たちの方が少ないお金で人生を楽しむ方法を知っている。
先駆けて新社会システムの実現に尽力した若き経営者も多く、生体社会の実現は彼らの功績であると言っていい。心ある学者や知識人の知恵を集めてより緻密に完成した社会システム論を若者たちが中心となってその社会の実現を推し進めていった。生体社会論を支持するグループは新しい企業を起こしたり、既存の企業を買収したりして勢力を拡大していった。
資本主義の頃は本来の職人の仕事だけでなく、資金繰りに駆けずり回ったり、宣伝広告費に莫大な費用がかかったり、円高や円安に振り回されたり、利息の返済に追われたり、設備投資をすべきかどうかに頭を悩ませたりしていた。町工場の経営者は本業よりもそっちの方が忙しいのがどこでも当たり前だった。
社会が変わり、職人はほぼ職人の仕事だけに専念することができるようになり、より納得のできる仕事ができるようになった。設備は申請して、必要と認められれば準備してもらえる。つまり、自分で準備する必要がない。資本主義社会のように、自分で資金を調達する代わりに、利益の全てを受け取ることも可能だ。そうしている人は少数だが存在する。
銀行からの借入れもなくなり、利息の返済の心配もなくなった。広告宣伝も申請しておくだけで良く、それが社会に必要な部品であることが認められれば、公的機関が無償で宣伝してくれるので、営業力の差で、社会に有益な商品やサービスが社会に循環しないということがなくなった。
このように、職人が職人の仕事に専念できるのは人体の臓器の仕組みに照らし合わせても合理的なことだ。そのため、職人の後継者も次々と育っている。彼らは私のような資金繰りに走り回っていた時代を知らない幸せな世代だ。
新しい社会でも、教育が国の礎を作るという考えは同じだ。そのためには、学校教育だけでなく、家庭での教育や地域での教育も重要だ。教育学には様々な学派があるが、政府が特定の学派を推奨するのではなく、選択肢の中から選べばよい。
私の最初の子は資本主義社会で育て、次の子は新しい社会への移行期に育てたが、教育学を学ぶことによって、子育の手間やストレスが激減し、喜びは激増した。今まで、あまりに無駄な子育をしていたということに気づかされた。子供に余計な口出しをすることがなくなり、子供とは良い関係で接することができるようになった。
家庭での暮らしも大きく変わった。テレビやネットのCMも大きく変わり、みだりに消費を促そうとする宣伝はなくなった。資本主義社会では必要のない所に需要を作りだすことによって、お金を循環させるという本末転倒なことが行われていた。社会が変わり、電話セールスや飛び込みの訪問営業はなくなった。
主婦の生活にもさらにゆとりができた。以前は新聞の折込チラシを見比べて、どこのスーパーが安いかを調べるためにかなりの時間をかけていた。今はどこのスーパーに行っても同じ商品ならば同じ値段で売っている。書店と同じだ。セールにより、POP(値段表)を変える必要もなくなり、スタンプカードのようなものもなくなり、スーパーの店員の仕事にもゆとりができた。社会全体での膨大で無駄な広告コストも減り、エコな時代になった。
情報の統合化も進み、必要な情報が1箇所で集まるようになった。以前はインターネットでの情報収集も様々なサイトを渡り歩かなければならなかったが、情報が整理され、有意義な情報、より正確な情報に、短時間でたどり着くことができるようになった。
値段に多少の差があっても、どうせ通貨が減価していくので、そんなに細かいことを気にする人はいなくなった。今から思えば、資本主義時代はお金のことを常に意識して生活していた。目の前の1円、10円の節約に心を奪われていた。しかし、新しい社会になってからは、お金のことをあまり意識せずに、充実した人生を生きることに全神経を集中することができる。今まではお金に振り回され、人生の貴重な時間の多くを無駄にしたと後悔している。
支払いはカードのような端末で簡単に支払いができるので、小銭を支払うのに時間がかかることもない。端末は携帯でも代用できる。端末なので、それにデータが入っているわけではなく、中央のサーバーで厳重に管理されているので、その端末が故障しても財産を失うということはない。
主婦にとっては、物価が下がったことはありがたい。化粧品、医薬品、電気料金、葬儀費用といった原価が安く利益率の高いものは軒並み価格が下がった。
優れた商品やアイディアもそれが生み出されるだけでは全く広まらず、それがマーケティングに乗る必要があり、職人が職人の仕事だけをしていては成り立たない時代だった。つまり、広告費を支払うことができなければ、良い物を広めることもできないのだ。生体社会となり、広告は1つの機関が独占して効率よく行うようになった。独占というと競争が働かないと批判されがちだが、資本主義時代の広告業界は6兆円産業で、電通など寡占状態で、不透明な料金設定とそこにつけこんでの料金格差、メディアの印象操作など様々な問題点が指摘されていた。本来自由競争市場であるはずの資本主義社会であっても、広告業界は実質的に新規参入が不可能な状態になっており、競争原理が働いていなかった。そう考えると、1つの公的機関が独占して、消費者に有益な情報を精査し、広告した方がすっとマシだ。
新しい社会システムでは所定の手数料を支払えば、複数の担当者がその情報を精査し、社会に有益な情報、広めるべき情報であると判断されればテレビなどのメジャーなメディアで紹介される。もちろん、そういった種類の情報でなくても、所定の料金を支払えば広告はできるので、資本主義の商業CM的な要素もある。
こうした制度により、資金力のないNPO法人が社会に問題を提起したいといった場合でも、広く情報を発信できるようになった。
資本主義的な見方をすれば、市場規模数兆円の広告産業が消えてなくなったということになるが、生体システム論的に見るならば、毎年数兆円規模の無駄がなくなり、それに伴う無駄な労働と様々な資源の浪費がなくなり、人々にゆとりが増えたということになる。
新しい社会では、テレビCMもインターネットCMのように、視聴者に合わせたものが映される。また、CMは公的機関が行うので、国民が流してもらいたいCMをリクエストすることができる。メディアは政治と同じように既に大きな権力なのだから、そこに民意が反映されるべきという考えだ。
自分が役に立った情報とか、使ってみて良かった製品や意見広告、地域限定のCMなど、リクエストが一定数に達したら、必ずCMとして流されるようになっている。
このように情報発信方法を一元化し、情報発信を民主化するという仕組みは人体の情報伝達の仕組みを見ても理にかなっている。擦り傷ができた時、皮膚の細胞は痛いという情報を脳に伝達し、手当をしたり、瘡蓋(かさぶた)を形成したりする。
CMのみならず、テレビ番組も大きく変化した。資本主義時代は各放送局が視聴率競争にしのぎを削っていたが、今は視聴率重視から番組の質を重視するようになったし、各局が分担してマスメディアとしての使命を果たすようになった。
資本主義時代は夜の家族団らんの時間帯に、どのチャンネルを見ても、子供が見るのに相応しくない番組しかなかった時がしばしばあった。例をあげると、暴力シーン、流血シーン、低俗な内容のバラエティ番組、非道徳的な経験などをむしろ誇らしげにしゃべるような番組などだ。それらの番組を否定するわけではないが、新しい社会ではどのチャンネルを見てもそういった番組しかない時間帯が生じないように各局は連携を取るようにしている。
このような放送局どうしの連携は災害の時にも役に立つ。もしも、東日本大震災の時に生体社会のようなメディアの分業が実現していたら、A放送局は安否確認情報、B放送局は原子力発電所情報、C放送局は福島県の情報、D放送局は子供のための番組(アニメなど)といったような適切な分担がなされていただろう。
ついでに言うと、今の全てのパソコンのデスクトップ上には災害時のポータルサイトにつながるショートカットアイコンがあり、その入口(ポータルサイト)から安否確認、各県各地域の情報、各避難所などの情報にたどり着くようになっていて、情報を書き込む人もそこに書き込むために情報が集約される。情報の集約化の恩恵を最も感じるのは災害の時だ。
そのため、資源に恵まれない日本も諸外国からの資源の輸入に不自由がない状態になり、日本政府も生体社会に移行する英断を下すことができたのだ。
今は世界が変わる前夜といった状況だ。我々はベルリンの壁の崩壊よりももっと劇的な世界の変革を目前にしている。
少子化問題も解消された。もともと少子化問題とは子供が少ないこと自体が問題なのではなく、少子化により、高齢者の生活が支えられないとか、国際競争力が低下するといったことが問題だった。生体社会となり、それらは出生率に関係なく、全く問題がなくなった。つまり、少子化から生じると予想されていた諸問題が社会変革により解消された。
出生率も向上している。経済的な問題が解決され、若年層の婚姻率も増加し、人々が豊かになったからだろう。
それによって、情報の集約化、クラウド化が進み、新しい社会で必須となる電子マネーのやり取りもこの環境のおかげでスムーズになった。
国民全てに番号が割り当てられていて、患者のカルテは全てクラウド上に保存される。以前は各病院が管理していたので、病院を変えた時は最初から説明しなおさなければならなかった。今はどの病院からも患者のカルテにアクセスできるように、情報が一元管理されている。個人の健康情報がデータベース化されて、その人がどんな既往症を抱えているのか、どんな薬を飲んでいるのか、どんなアレルギー症状があるのかなどの情報が蓄積され、医療に生かされるようになった。東日本の大震災では、カルテが流されて重要な情報の多くが失われたが、もうそういった心配はない。
光ファイバーの情報網により、自宅で測った血圧などの値が医療クラウドに送信され、診察の際に利用される。そのインターネットインフラは同時に教育も変えた。小学生のランドセルはずいぶん小さくなった。それは紙の教科書がなくなり、電子教科書になったからだ。
オレオレ詐欺や振り込め詐欺も様々な心理学的手法を取り入れますます巧妙化し、全国民にその防御法を徹底させることは実質的に不可能となり、高齢者を中心に被害に遭う人も多かった。しかし、それもなくなり、日本の治安は世界一良くなった。
JA(全国農業協同組合)も様々な問題点を抱えていて、必ずしも農家の利益、消費者の利益になっていない点も多かったが、そういった問題も解決した。
私はこれまでに日本に何度も訪れたこともあったし、数ヶ月暮らしたこともあったが、その時の日本とは大きく異なっていた。まず、街がとても綺麗になっている。そして、治安も非常に良く、人々が生き生きとしていた。
先駆けて、この希望あふれる生体社会に移行した日本に世界は喝采を送り、熱い視線を投げかけている。日本が世界の救世主になるかもしれないのだ。そして、この革命運動に関わった人々は後世まで語り継がれる者となるだろう。
私の知る限り、政治家も評論家も未来の青写真を明確に描いている人はほとんどいません。当面の政治的な課題をどのように解決するかのみを議論しあい、東奔西走しているだけです。いわばその場しのぎの政策であって、穴が空いている所や空きそうな所にパッチを当てているのに過ぎません。
橋下徹大阪市長を代表とする大阪維新の会は、大阪都を目指すという青写真を描いて、その目標に向かって一心不乱に突き進んでいる姿が人々に勇気を与え、支持を得ています。新しい社会システムである生体社会の実現というのは、大阪都構想よりももっと壮大な計画です。力もなく、知恵もなく、資金もない私がひとりで成し遂げられるものではありません。
私の最終目標は全世界がバイオミメティック社会論に基づく社会となり、貧困も、飢えも、戦争もない社会を実現することです。せめて、日本やこの新しい社会システムと相性の良い国だけでも、このシステムが採用され、全ての人が貧困とは無縁の生活を送ることができるようになればと心から願っています。
ここで、生体社会の青写真を示し、後の章でそれを実現するにはどのようにすればいいかを考えていこうと思います。生体社会システムの考え方はオープンソース(open source)的です。オープンソースとはその仕組みを無償で公にして、誰もがその改善に参加できるようにすることです。私がここに示した基本となる考え方、つまりバイオミメティック社会システム(身体の仕組みから学ぶ)という考えを基調として、経済学者だけでなく、知識人、政治家、医者などの知恵を結集し、より良い社会を創造するためのプランを構築したいと考えています。そして、本書がその叩き台となれば幸いです。
政治家レベルの外交や資本主義経済下での貿易の場合、Win-Winの関係はなかなか成立しません。外交は国益と国益のぶつかり合いですし、外交を有利に進めるために軍事力や経済力があるという面も否定できません。政治家などが日本の国益を語る時、相手側の国民に対しての配慮はありません。今回勝っても、次回は負けるかもしれません。資本主義を続けている以上、この呪縛からは抜けられそうにもありません。しかし、生体社会システムが広まれば、全世界が協力して、全ての国が幸せになるというシナリオも決して夢物語ではないと信じています。
理解を深めるためとこれまでの復習を兼ねて、この章はストーリー仕立てで説明したいと思います。ここまでは騙されないようにと眉に唾をつけながら読み進めてきた人も、この章は空想小説だと思って、肩の力を抜いてお読みください。
20XX年、日本
グローバルな資本主義社会が行き詰まるとともに、互助経済論と生体社会論を支持するグループに端を発したムーブメントは数年で急激に広まり、ついに日本は資本主義を脱却し、生体社会論に基づく社会に移行した。その頃になると、世界各国に生体社会論に基づき活動するグループが作られ、石油や鉱物など、海外からの輸入に頼らなければならない物資の調達も、海外のグループを通じて貿易できるまでになり、日本独自で資本主義を脱却しても問題ない環境がほぼ整っていた。日本国民の英断に世界各国は熱い視線を投げかけている。他の資本主義国家も、格差問題、財政問題など、資本主義が完全に行き詰まり、誰もが出口を求めている状態だったからだ。
以下は、海外ジャーナリストが資本主義を脱却して数年経った日本で、様々な職種の人にインタビューをした結果をまとめたものである。
家電量販店の販売員
家電が好きで入ったこの業界だったが、厳しい売上ノルマを課せられ、サービス残業が続く日々だった。しかし、生体社会になって仕事は一変した。日本中の家電店が1つに統合され、企業間の競争がなくなったからだ。どの家電店で買っても同じ商品なら同じ値段だ。これまではノルマがあったので、実のところはお客さんに最適な商品を薦めるのではなく、より高額な商品や利益率の良い商品を薦めていた。最初は少し心が痛んだが、この仕事をはじめて数ヶ月経つとそのささやかな良心の呵責もなくなってきた。
でも今はノルマがないために、お客さんのライフスタイルにあった商品を薦めることができ、お客さんも喜んでくれ、とても気持ちがよく、仕事にやりがいを感じている。商品の説明に熱がこもりすぎると、お客さんから「あなたは本当に家電が好きなのね」と笑われることもあるぐらいだ。自分の好きなこと、得意なことで社会に貢献でき、生活できることはとても有難いと感じている。
1日の労働時間も7時間に減った。以前はサービス残業が当たり前で、家には寝るためだけに帰っていたような状況だったので、1日の労働時間を比べてもずいぶんゆとりがある生活になったと言える。家電量販店同士の価格競争のしわ寄せは私たちのサービス残業という形となって現れていた。それだけでなく、それまでは月に2、3日程度しかなかった休みが、今では逆に週に2、3日程度の出勤で済むようになった。給料は生活に困らないだけあるし、生体社会の社会は社会全体の効率化により物価が安いので、むしろゆとりがあると言っていい。値引きを強要するお客さんもいなくなり、他店との価格の比較も不要になり、過剰な広告費とそれに関わる人件費も抑えられ、仕事にゆとりができた。
私たち販売員だけでなく、上司の仕事も様変わりした。以前の上司は接客をせず、バックヤードの事務所でパソコンモニター上の売上表とにらめっこすることだけが仕事だった。仕方ない、彼らも私たちと同様に、上司からノルマを課せられていたからだ。今は彼らもそのノルマから開放され、部下に叱咤激励する仕事、売上管理の仕事、広告の打合せ、販売戦略会議などの仕事がなくなり、仕事量が激減したために私たちと同じ売り場に立たざるを得なくなった。彼らも以前は売り場を経験しているのだが、長らくそこから遠ざかっていると、また売り場に出てくるのに勇気がいったようだ。客が怖いということと、より低レベルの仕事に移ったようでプライドが傷つくということがその理由らしい。しかし、それもすぐに解決された。なぜなら、売り場の仕事にやりがいがあるからだ。彼らは今ではこう言う。「今までの仕事は心からやりがいがあるとは言えなかった。でも、今は社会に貢献している、有益な仕事をしているという充実感、自分が必要とされているという満足感があり、若くして新社会システムで働ける君たちが羨ましい」と。
これは消費者にとってもいいことで、どこが安いかという比較に膨大な時間を取られることがなくなり、わざわざ少し安い店に時間とガソリン代を使って買いに行くということもなくなった。
だが、さらに上の管理職は面白くないらしい。株式制度が廃止され、持株の配当で儲けるということができなくなったからだ。それに貯蓄高の上限にひっかかって、無駄に優雅な生活もできない。メーカーも統合されたので、豪華な接待を受けることもなくなった。彼らは新システムの導入に最後まで抵抗していた抵抗勢力だった。
これまでは同族経営の会社だったが、彼らは会社運営から退くこととなり、今では管理職はマネージメントを学んだプロが彼らに替わってやっている。会社は社会のものであって、個人や創業者一族のものではないので、優秀な管理者がトップに立つ仕組みができている。我が社のように外部から経営のプロが入ってくる場合もあるが、社員の中から選挙のような民主的な選抜方法で管理職を決めることの方がむしろ一般的かもしれない。
生体社会は競争をしない社会だと言う人もいるが、こうしてみると、むしろ資本主義の方が適切な競争の場が保証されていなかったことに気づく。
ファミリーレストランで働くウェイトレス
私はファミリーレストランでウェイトレスをしている。ファミリーレストラン業界も経営統合されたが、店独自の特色は残っている。無駄な競争をなくし、過度な価格競争で安全性の疑わしい食材の提供などを防止するとともに、配送などを合理化するための経営統合であり、消費者にとって有益な競争までを排除するものではないからだ。それにより、生肉を食べて食中毒というようなことはなくなった。他の業種と同様に、現場の私たちは労働時間も減り、給料は上がった。でも、それ以上に嬉しいのはお客さんの質が上がったことだ。これまでは、ウェイターやウェイトレスは何となく下に見られ、注文を間違えたらひどく叱られることもあったし、一生懸命していても料理が遅いと文句を言うお客さんもいた。私たちに「ありがとう」と言ってくれるお客さんなどはほとんどいない状態だった。
しかし、生体社会になって、収入が多い人が偉いとか、社会的地位が高い人が偉いといった価値観から、社会への貢献度が高い人がより尊敬される風潮になった。既得権益で収入を得ていた人や、社会貢献度に比べて法外な収入を得ている人よりも、社会が必要としているサービスを提供している人が尊いという風潮になった。
これまではお金を支払う側が上で、受け取る側が下といった価値観が当然のようにまかり通っていた。生体社会ではお金が減価するため、商品やサービスをスムーズに循環するためのツールに過ぎないという認識が一般的になった。それに伴い、お金を支払う側と受け取る側が対等という価値観が一般的になった。そのため、お客さんが不機嫌でも、店員は無理な作り笑顔という従来のような状況はなく、互いに「ありがとう」と言うとても気持ちのいい職場になった。
生体社会となって、明らかにモラルが向上した。と同時に、それまで社会的地位の高かった人は実力社会の競争に晒され、実力がなく高い地位に就いていた人は淘汰されていった。その結果、社会全体から老害がなくなり、効率がよく、労働環境の良い組織に生まれ変わった。
こうした価値観の変化により、私たちもお金に対して頭を下げるのではなく、お客さん自身に対して礼を尽くす態度に変わり、影でお客さんの悪口を言う店員も減った。
証券会社の社員
生体社会で株式制度が廃止されたことに伴い、職を失った。企業側の株で資金を調達できるというメリットと引き換えに、莫大な害悪を社会に撒き散らす株式市場は日本に存在しなくなった。株式市場がなくなるなど、そんなことは誰も想像もしなかったことだが、1602年に世界初の株式会社である「東インド会社」より以前には株式会社がなくても社会は成り立っていたのだから、もともと不可能なことではなかったのだろう。
これまでは、大きなお金を動かす自分たち証券マンは世界経済により大きく貢献していて、高収入を得る価値があると考えていた。自分たちがいないと世界の経済は回らないとさえ思っていた。1日に何億円も動かしていたから、そのように感じたのかもしれない。しかし、今では通貨が人の手によらず勝手に循環していくために、証券マンや銀行員は不要になってしまった。
私たちは最後までこの新しい社会システムの導入に反対した抵抗勢力だった。社会が変わり、今では毎月支給されるベーシックインカム(基本所得)とアルバイトで庶民並の生活を送っている。今までは自分の能力をお金を生み出すことに投入してきたが、これからは何か具体的に社会に貢献できることで、自分の才能を活かしたいと考えている。
税務署職員
生体社会になり、税務署の今までの仕事はなくなった。複雑な経理をしなくても、税が自動的に徴収されるし、ベーシックインカムの支給も自動的に行われるからだ。今までは法に基づいて適切に税を納めさせることが、税の平等性を担保することだと考えていた。だから、税務署の仕事は社会の公平性に寄与する仕事だと誇りを持っていた。しかし、生体社会の基本的な考え方は「社会により多く貢献している人により多くの報酬を」という考え方だ。
これまでは税務署の仕事に問題意識を持っていなかったが、我々のやってきたことは、同じ業種間での税の不公平感をなくすことに過ぎず、俯瞰すれば職種の違いなどによって、歴然とした不平等が確かに存在していた。税務署はむしろそのことから目を逸らさせていたのかもしれない。資本主義社会でいう公正な税の徴収とは、実際に汗水流して働いて30万円を稼いだ人とその人に仕事を丸投げして何もせずに30万円を手にする人に、同額の税負担を求めることだったのだ。
生体社会になって、従来の税務署の仕事はなくなったが、多くの職員はそれまでの経験を生かして、企業の報酬が適切か、個人の収入が適切かを診断する仕事をしている。この方がよほど社会の公正に寄与している感じがする。
建設業者
今までは公共事業の孫受けをしていた。つまり、下請けの下請けだ。お役所が予算を使い切りたいために、必要性の低い道路工事を発注することが多かった。しかし、それが景気回復につながるとケインズという偉い経済学者が言うので、そうなんだろうと考えていた。社会システムが替わり、無駄な公共事業は一切なくなった。建設業者は普段は仕事がなくても、一定量の収入が保証されるようになった。もちろん、ベーシックインカム以外でだ。だから、普段はのんびりと建設に関する新しい知識を学んだり、重機のメンテナンスをしたりして、仕事がある時に備えていればいい。その間に別の仕事に携わる人もいる。
最初は、仕事をしていないのに、建設業者に給料が与えられるというのは不公平ではないかと言う人もいた。しかし、必要もない道路を工事されて渋滞に巻き込まれたり、水道管修繕で掘り返して、またガス管の修繕で掘り返したりといった無駄な工事がなくなり、それが理解されるようになった。
こうした技術に対しての給与保障制度は資本主義社会でも存在する。自衛隊員、消防士、警察官などがそれにあたる。火事がないと収入がないからと、消防士が放火をすることはない。緊急事態の時に対応できるように準備しておくことが彼らの仕事であって、それに対価を支払うのは資本主義の理論でも正しいのだ。今月は火事が1件もなかったのに、消防士の給料が支払われるのはおかしいという人はいない。
そのため、建設業界は公共事業を促すだけの税金を無駄に使う業界というイメージから、専門家の立場から、必要な工事とそうでない工事を精査し、適切なアドバイスをしてくれる職人集団というイメージになり、業界全体の信頼度が高くなった。リフォーム業者も同様で、悪徳な商売をする業者もいなくなった。
人体のシステムと比較して考えれば、お酒を飲んだ時、肝臓には通常より多くの血液が集まり、アルコールを分解する。それと全く同じで、建設業も工事の必要がある時だけ仕事をし、その時は通常より多くの給料が支給されるのは理にかなっている。
建設業者だけでなく、他の多くの技術職、医者、歯科医、町工場の職人などもこのような給与体系となり、わざわざ仕事を作り出さなくても、技術維持手当が毎月支給され、仕事があればプラスで収入があるという仕組みとなっている。ただし、資格や技能を持っているだけで、社会から要請があってもそれを断り続けるとその技術維持手当を受け取る資格はなくなる仕組みになっている。だから、その技術を維持するための努力は皆欠かさないようにしている。
資本主義社会と違って、生体社会では社会に貢献できる能力をもつ人が優遇される。資本主義社会でも優秀な職人は優遇されるが、必ずしもその優秀な職人が商売の才能もあるとは限らない。むしろ、商売下手な職人も多い。そのため職人としては半人前でも、商売が上手な職人の方が多くの利益を得ることがしばしば見られた。また、職人が商売下手なことにつけこんで、安い賃金で下請け作業をさせて暴利を貪る企業が跋扈していた。
以前は、優秀な職人が金策に走ったり、商業性を考えて自分の信念を曲げた作品を作らざるを得なかったりということもあった。しかし、新しい社会では職人は仕事のことに専念することができるようになり、仕事の質も格段にアップした。
派遣社員
今まで派遣社員として、数社を渡り歩いてきた。どこでも派遣社員は労働力の切り売りで、使い捨ての労働力の扱いで、雇用の調整弁としての役割を担ってきた。つまり、企業は仕事の多い時だけ私たちを雇い、仕事が減れば容赦なく私たちを切り捨てるのだ。それに加えて、正社員に比べて待遇は悪く、会社によっては、同じ仕事をしているにも関わらず見下され、差別されることもあった。生体社会となり、全ての人の雇用が平等に不安定になった。不安定になったというか、生涯に渡って職にしがみつくことができる保証がなくなったと言った方が正確だろう。つまり、公務員や既得権益で守られた会社(例えば、電力会社)のように、いったん入社したら、自分から辞めない限り、解雇されることはないという身分保障は一切なくなったということだ。全ての人が非正規雇用といった感覚だ。
資本主義社会では非正規雇用というと、収入が不安定で、生活に困窮しがちというイメージだが、生体社会ではそうではない。給料を支払う義務は必ずしも企業にはないからだ。企業に収益がなくても、自分がした社会貢献は適切に判断され、それに見合う給料は与えられるという仕組みだからだ。
しかも、ベーシックインカムが保障されているため、職を失っても生活に困ることはない。だから、職にしがみつく必要はない。だからといって、仕事が雑になったり、無責任になったりすることはない。
これまでは、会社に不要な人材であっても、お荷物であっても、正社員だと解雇することができなかった。公務員も同様だ。正社員より能力があっても、法的に守られていない派遣社員の首が切られるという理不尽な状況が続いていた。
生体社会では職を転々とすることもできるが、一生同じ職につく人も多い。肝臓の細胞は肝臓の細胞のまま一生を終える。心臓も、腎臓も同様だ。だが、細胞は分化できる。(分化とは、多細胞生物に於いて、個々の細胞が構造機能的に変化することである。)自分にあった自由な働き方が選択できる時代になり、余暇が増え、無駄に贅沢な暮らしはできないが全ての人々が安心して文化的な生活を送ることができるような時代になった。
論語に「寡なきを患えずして、均しからざるを患う」という言葉がある。富の分配が少ないことが不満となるのではなく、分配が不平等だということが人民の不満となるという意味である。非正規労働者、下請け労働者はこの不平等が最も苦痛なのだ。多大な損失を出しておきながら、社会に多大な迷惑をかけておきながら、法外な退職金を貰う人、一生懸命社会を下支えするような仕事をコツコツとしながら、苦労して子育てをしながら貧しい生活を強いられる人。数億円を放蕩して使い果たす人、かけそばを親子で分けあって食べる人。
生体社会となり、不平等が全くなくなったというわけではないが、資本主義社会の頃と比べれば、それは雲泥の差である。
生体社会となり、今まで社会的地位が高かった人が実際はほとんど仕事ができないということが露呈したり、逆に、就職氷河期にあたって大学を卒業後からアルバイトをしていた本当に能力のある人が企業の重役になったりした。フェアな競争がこの社会にはある。これが真の実力社会だ。
生涯職人を貫いた人の職に対する満足度は高いが、サラリーマンを一生貫いた人の満足度は高くない。特に、人生の最期にあたって、人生を振り返った時、自分が残したものがローンで建てたマイホームぐらいしかないことに愕然とする人もいた。自分のサラリーマン人生を振り返って、お金を稼ぐことに明け暮れ、残したものがあまりに少ないことに落胆し、何のための人生だったのかと虚無感に襲われる人もいた。正社員という毎月決まって餌を与えられる権利と引き換えに、会社の奴隷になっていたからだ。
しかし、生体社会は会社の奴隷になることもなく、様々な職業にチャレンジする機会に恵まれるようになり、自分が本当にやりたい職業を目指す人が増え、他の人の気持ちが分かる人が増え、人生の満足度が高くなった。一度限りの人生をお金に振り回されて過ごすのはもったいない。お金ではなく、自分の人生に向きあう人が増え、快適な社会となった。
作家
著作権に対する考え方が変わり、海外に拠点を移す作家も多かったが、徐々にそのメリットが認められ、そういった人もまた日本に帰ってきた。同時に、海外でもこのようなムーブメントが起こっている。資本主義社会と同様に、作品を生み出した瞬間、そこに著作権が発生する。ただ、その著作物は原則として無償で公開され、誰でもその情報を入手できるという点が違うのだ。無料になっても、作者の名誉が失われることはない。
所得の上限があるからといって、作家のモチベーションが減るということもない。私の場合、ここ数年ヒット作に恵まれてないが、根強いファンでお金持ちの人が、貯蓄高の上限を超える予定分の一部を私に制作支援として送ってくれるので、生活には困らない。
生体社会のお金持ちの中には、上限を超えて税として持って行かれる前に、自分で使い道を決める人も少なくない。そうすることが政治参加にもなる。私は昔人間なので、「税として持って行かれる」と表現したが、それは以前の日本でのことで、生体社会になってからは、税が有効に使われるので、そういった表現をする人は稀だ。政府に信頼があるので、上限を超えるままに任せている人も多いのが実情だ。
私も仕事がら自由な発想を得意としていたが、著作物を自由に複製するという発想はしたことがなかった。そんなことをすると利益にならないと思ったが、やってみたらちゃんと利益にもなり、創る喜びも大きくなり、著作権侵害にイライラする必要もなくなり、それを監視する手間も省けるようになった。
実業家
経済的に恵まれない家庭に育ったが、実力で会社を起こし、一代でそこそこの財を成した。成金だと悪口を言う奴もいるが、実力もないのに、親の財産に頼っているやつやとか、コネで出世していくやつとか、偏差値だけ良かったやつとかより、自分の力でここまで来たという実感があった。生体社会には貯蓄高に上限があるため、成功をおさめた実業家の中には海外に移住する者も少なくなかった。そのような状況を見て、当初は日本からは優秀な経営者が輩出されなくなるだろうと予想する専門家もいたが、システムとしての完成度が高いため、優秀な経営者がそれほど必要ないのだ。しかし、教育の成果と社会の変革により、優秀な経営者が数多く育っている。
日本を出ていった経営者が優秀だったのかどうかは疑わしい。私に言わせれば、たまたま力任せに振り回したバットが運良くホームランになったような、あまり中身のない経営者も少なくない。
しかし、本当に優秀で心ある実業家は日本に残っている。それはこの社会での仕事に魅力があるからだ。つまり、彼らにとって、持て余すほどの金銭は主目的ではないからだ。私も日本に残った。大金持ちになれないことは少し残念な気もしたが、新しい社会のお金と幸福に対する哲学を受け入れた。
ここに、2005年に45万人の人を対象にして、年収と幸福の関係を統計分析した米プリンストン大学の調査がある。一般には年収が増えると幸せになると考えられているが、年収75,000ドル(日本円で630万円)をピークに、幸福度は下がっていくという結果が出た。
この社会システムの考案者はこう言った。「年収1000万円で幸せになれない人は幸せになるスキルが欠如している。だから、それが2000万円になっても、1億円になっても、自分が持っている『幸せになる才能』、『幸せであることに気づく才能』以上には幸せになれなることができない。そんな人にお金を与えるのは砂に水を撒くのと同じだ」と。
バブル時代の若者は2010年頃の若者よりも幸せだったのだろうか。異性の価値を乗っている車で判断したり、ブランド品を収集したりしていたバブルに踊らされていた人たちと、軽自動車で満足し、安いファミリーレストランやファーストフード店で人生を積極的に楽しむデフレ期の人たちとどちらが健全なのだろうか。飲み会でも、食べ切れないほどの料理をとりあえず頼む世代と、必要な料理だけを少しずつ追加注文する世代とどちらが健全だろうか。バブル期の人たちよりも、それ以降の人たちの方が少ないお金で人生を楽しむ方法を知っている。
先駆けて新社会システムの実現に尽力した若き経営者も多く、生体社会の実現は彼らの功績であると言っていい。心ある学者や知識人の知恵を集めてより緻密に完成した社会システム論を若者たちが中心となってその社会の実現を推し進めていった。生体社会論を支持するグループは新しい企業を起こしたり、既存の企業を買収したりして勢力を拡大していった。
町工場経営者
日本の産業は町工場が支えていると言われていた。生体社会となってもそれは同じだ。今は以前に比べてずいぶん働きやすくなったし、後継者問題も解消された。資本主義の頃は本来の職人の仕事だけでなく、資金繰りに駆けずり回ったり、宣伝広告費に莫大な費用がかかったり、円高や円安に振り回されたり、利息の返済に追われたり、設備投資をすべきかどうかに頭を悩ませたりしていた。町工場の経営者は本業よりもそっちの方が忙しいのがどこでも当たり前だった。
社会が変わり、職人はほぼ職人の仕事だけに専念することができるようになり、より納得のできる仕事ができるようになった。設備は申請して、必要と認められれば準備してもらえる。つまり、自分で準備する必要がない。資本主義社会のように、自分で資金を調達する代わりに、利益の全てを受け取ることも可能だ。そうしている人は少数だが存在する。
銀行からの借入れもなくなり、利息の返済の心配もなくなった。広告宣伝も申請しておくだけで良く、それが社会に必要な部品であることが認められれば、公的機関が無償で宣伝してくれるので、営業力の差で、社会に有益な商品やサービスが社会に循環しないということがなくなった。
このように、職人が職人の仕事に専念できるのは人体の臓器の仕組みに照らし合わせても合理的なことだ。そのため、職人の後継者も次々と育っている。彼らは私のような資金繰りに走り回っていた時代を知らない幸せな世代だ。
専業主婦
生体社会にはベーシックインカム制度があるが、特定の資格を持っていたり、特定の研修を受けたりすることにより、基礎所得額がより高額になるという制度がある。大部分の人はそれを利用している。例えば、出産前に子育て研修を受けることによって、ベーシックインカムに加えて、一定額の加算支給を受けられるという制度がある。それにより、虐待などの教育上の問題が激減した。これは社会にとってもプラスだから、税を余分に投入するだけの価値はある。新しい社会でも、教育が国の礎を作るという考えは同じだ。そのためには、学校教育だけでなく、家庭での教育や地域での教育も重要だ。教育学には様々な学派があるが、政府が特定の学派を推奨するのではなく、選択肢の中から選べばよい。
私の最初の子は資本主義社会で育て、次の子は新しい社会への移行期に育てたが、教育学を学ぶことによって、子育の手間やストレスが激減し、喜びは激増した。今まで、あまりに無駄な子育をしていたということに気づかされた。子供に余計な口出しをすることがなくなり、子供とは良い関係で接することができるようになった。
家庭での暮らしも大きく変わった。テレビやネットのCMも大きく変わり、みだりに消費を促そうとする宣伝はなくなった。資本主義社会では必要のない所に需要を作りだすことによって、お金を循環させるという本末転倒なことが行われていた。社会が変わり、電話セールスや飛び込みの訪問営業はなくなった。
主婦の生活にもさらにゆとりができた。以前は新聞の折込チラシを見比べて、どこのスーパーが安いかを調べるためにかなりの時間をかけていた。今はどこのスーパーに行っても同じ商品ならば同じ値段で売っている。書店と同じだ。セールにより、POP(値段表)を変える必要もなくなり、スタンプカードのようなものもなくなり、スーパーの店員の仕事にもゆとりができた。社会全体での膨大で無駄な広告コストも減り、エコな時代になった。
情報の統合化も進み、必要な情報が1箇所で集まるようになった。以前はインターネットでの情報収集も様々なサイトを渡り歩かなければならなかったが、情報が整理され、有意義な情報、より正確な情報に、短時間でたどり着くことができるようになった。
値段に多少の差があっても、どうせ通貨が減価していくので、そんなに細かいことを気にする人はいなくなった。今から思えば、資本主義時代はお金のことを常に意識して生活していた。目の前の1円、10円の節約に心を奪われていた。しかし、新しい社会になってからは、お金のことをあまり意識せずに、充実した人生を生きることに全神経を集中することができる。今まではお金に振り回され、人生の貴重な時間の多くを無駄にしたと後悔している。
支払いはカードのような端末で簡単に支払いができるので、小銭を支払うのに時間がかかることもない。端末は携帯でも代用できる。端末なので、それにデータが入っているわけではなく、中央のサーバーで厳重に管理されているので、その端末が故障しても財産を失うということはない。
主婦にとっては、物価が下がったことはありがたい。化粧品、医薬品、電気料金、葬儀費用といった原価が安く利益率の高いものは軒並み価格が下がった。
広告代理店社員
資本主義時代はテレビコマーシャルが画一化されていて、流れてくるのは大手の企業の商品ばかりで、何度も何度も同じコマーシャルを見せられてうんざりしていた。テレビコマーシャルを流すには大企業であったり、利益率の高い商品であったりする必要があり、必ずしもそこで流される商品が優れたものであるとは限らない。また、商品の売上をあげるために、有名人に莫大な広告料を支払うことが多く、それは全て商品の価格に上乗せされて、消費者は必然的に高い商品を買わざるを得ないようになっていた。優れた商品やアイディアもそれが生み出されるだけでは全く広まらず、それがマーケティングに乗る必要があり、職人が職人の仕事だけをしていては成り立たない時代だった。つまり、広告費を支払うことができなければ、良い物を広めることもできないのだ。生体社会となり、広告は1つの機関が独占して効率よく行うようになった。独占というと競争が働かないと批判されがちだが、資本主義時代の広告業界は6兆円産業で、電通など寡占状態で、不透明な料金設定とそこにつけこんでの料金格差、メディアの印象操作など様々な問題点が指摘されていた。本来自由競争市場であるはずの資本主義社会であっても、広告業界は実質的に新規参入が不可能な状態になっており、競争原理が働いていなかった。そう考えると、1つの公的機関が独占して、消費者に有益な情報を精査し、広告した方がすっとマシだ。
新しい社会システムでは所定の手数料を支払えば、複数の担当者がその情報を精査し、社会に有益な情報、広めるべき情報であると判断されればテレビなどのメジャーなメディアで紹介される。もちろん、そういった種類の情報でなくても、所定の料金を支払えば広告はできるので、資本主義の商業CM的な要素もある。
こうした制度により、資金力のないNPO法人が社会に問題を提起したいといった場合でも、広く情報を発信できるようになった。
資本主義的な見方をすれば、市場規模数兆円の広告産業が消えてなくなったということになるが、生体システム論的に見るならば、毎年数兆円規模の無駄がなくなり、それに伴う無駄な労働と様々な資源の浪費がなくなり、人々にゆとりが増えたということになる。
新しい社会では、テレビCMもインターネットCMのように、視聴者に合わせたものが映される。また、CMは公的機関が行うので、国民が流してもらいたいCMをリクエストすることができる。メディアは政治と同じように既に大きな権力なのだから、そこに民意が反映されるべきという考えだ。
自分が役に立った情報とか、使ってみて良かった製品や意見広告、地域限定のCMなど、リクエストが一定数に達したら、必ずCMとして流されるようになっている。
このように情報発信方法を一元化し、情報発信を民主化するという仕組みは人体の情報伝達の仕組みを見ても理にかなっている。擦り傷ができた時、皮膚の細胞は痛いという情報を脳に伝達し、手当をしたり、瘡蓋(かさぶた)を形成したりする。
CMのみならず、テレビ番組も大きく変化した。資本主義時代は各放送局が視聴率競争にしのぎを削っていたが、今は視聴率重視から番組の質を重視するようになったし、各局が分担してマスメディアとしての使命を果たすようになった。
資本主義時代は夜の家族団らんの時間帯に、どのチャンネルを見ても、子供が見るのに相応しくない番組しかなかった時がしばしばあった。例をあげると、暴力シーン、流血シーン、低俗な内容のバラエティ番組、非道徳的な経験などをむしろ誇らしげにしゃべるような番組などだ。それらの番組を否定するわけではないが、新しい社会ではどのチャンネルを見てもそういった番組しかない時間帯が生じないように各局は連携を取るようにしている。
このような放送局どうしの連携は災害の時にも役に立つ。もしも、東日本大震災の時に生体社会のようなメディアの分業が実現していたら、A放送局は安否確認情報、B放送局は原子力発電所情報、C放送局は福島県の情報、D放送局は子供のための番組(アニメなど)といったような適切な分担がなされていただろう。
ついでに言うと、今の全てのパソコンのデスクトップ上には災害時のポータルサイトにつながるショートカットアイコンがあり、その入口(ポータルサイト)から安否確認、各県各地域の情報、各避難所などの情報にたどり着くようになっていて、情報を書き込む人もそこに書き込むために情報が集約される。情報の集約化の恩恵を最も感じるのは災害の時だ。
政治家
生体社会となり、低コスト化、効率化が進み、国際競争力が高くなった。諸外国は日本の動向を見て、自国にもこのシステムの導入を検討している状態だ。実は政治家よりも、国民からの要望の方が大きい。実際に、日本のように、民間の互助経済グループが諸外国に数多く誕生している。そのため、資源に恵まれない日本も諸外国からの資源の輸入に不自由がない状態になり、日本政府も生体社会に移行する英断を下すことができたのだ。
今は世界が変わる前夜といった状況だ。我々はベルリンの壁の崩壊よりももっと劇的な世界の変革を目前にしている。
少子化問題も解消された。もともと少子化問題とは子供が少ないこと自体が問題なのではなく、少子化により、高齢者の生活が支えられないとか、国際競争力が低下するといったことが問題だった。生体社会となり、それらは出生率に関係なく、全く問題がなくなった。つまり、少子化から生じると予想されていた諸問題が社会変革により解消された。
出生率も向上している。経済的な問題が解決され、若年層の婚姻率も増加し、人々が豊かになったからだろう。
医者
日本中の全ての家庭と職場にブロードバンド環境が整えられた。電気、水道、ガスなどのインフラに加えて、光ファイバーによる情報網も国民に必須のインフラとして認められるようになった。各家庭には光ファイバーでのインターネット(FTTH)環境が整えられ、無線ルータも設置され、有線および無線でのインターネット環境が完備した。それは僻地でも離島でも同じで、日本中の電話線のメタルケーブルが引き剥がされ、光ファイバーに置き換えられた。それによって、情報の集約化、クラウド化が進み、新しい社会で必須となる電子マネーのやり取りもこの環境のおかげでスムーズになった。
国民全てに番号が割り当てられていて、患者のカルテは全てクラウド上に保存される。以前は各病院が管理していたので、病院を変えた時は最初から説明しなおさなければならなかった。今はどの病院からも患者のカルテにアクセスできるように、情報が一元管理されている。個人の健康情報がデータベース化されて、その人がどんな既往症を抱えているのか、どんな薬を飲んでいるのか、どんなアレルギー症状があるのかなどの情報が蓄積され、医療に生かされるようになった。東日本の大震災では、カルテが流されて重要な情報の多くが失われたが、もうそういった心配はない。
光ファイバーの情報網により、自宅で測った血圧などの値が医療クラウドに送信され、診察の際に利用される。そのインターネットインフラは同時に教育も変えた。小学生のランドセルはずいぶん小さくなった。それは紙の教科書がなくなり、電子教科書になったからだ。
警察官
資本主義時代に比べて犯罪率が非常に低くなった。それは一定額以上の貯蓄ができないということやお金の流れの履歴が参照可能ということが原因だろう。それに貧困がなくなったということも犯罪率の低下に寄与しているようだ。オレオレ詐欺や振り込め詐欺も様々な心理学的手法を取り入れますます巧妙化し、全国民にその防御法を徹底させることは実質的に不可能となり、高齢者を中心に被害に遭う人も多かった。しかし、それもなくなり、日本の治安は世界一良くなった。
農家
農業も効率化された。小さい田んぼの兼業農家が高価な農機具を一式揃えるというような非効率はなくなり、兼業農家はグループで農機具を共同購入したり、田植えや稲刈りの農繁期には業者にそれを委託したり、日常の草取りのような仕事だけを各農家でしたりという形態での農業も多くなった。つまり、飛躍的に効率化が進んだということだ。JA(全国農業協同組合)も様々な問題点を抱えていて、必ずしも農家の利益、消費者の利益になっていない点も多かったが、そういった問題も解決した。
まとめ(ジャーナリストの感想)
資本主義とは違う道のりを歩み始めた日本を見て、日本人の変わり身の早さに感心した。東日本大震災時の日本人の姿にも驚き、感銘を受けたが、ここでも日本人の順応性に驚いた。携帯電話やスマートフォンの登場によって、私たちの生活は大きく変わったが、それ以上の変化がこの日本にあった。私はこれまでに日本に何度も訪れたこともあったし、数ヶ月暮らしたこともあったが、その時の日本とは大きく異なっていた。まず、街がとても綺麗になっている。そして、治安も非常に良く、人々が生き生きとしていた。
先駆けて、この希望あふれる生体社会に移行した日本に世界は喝采を送り、熱い視線を投げかけている。日本が世界の救世主になるかもしれないのだ。そして、この革命運動に関わった人々は後世まで語り継がれる者となるだろう。
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