みんなが幸せになる経済と社会のしくみを考えよう

資本主義に替わる理想的な社会システムと未来のビジョンを提示します

第七章 生体社会システム論に対する批判への反論

 この経済論に対しての反応は絶大です。もちろん、賛否両論があります。傾向として、中途半端な理解であればあるほど、反論が多く、理解度が高まるほど反論は減ってきます。
 ネット上での反論もあります。ネット上での反論は文章のため、理路整然と反論していただけることが多く、こうした反論は大歓迎です。そこでは決めつけ型の反論はほとんどありませんが、理解不足からの反論や資本主義肩入れ型の反論が多くなります。決めつけ型の反論の例としては、よく理解もせずに、「まるで共産主義だ」と決め付けるといったものがあります。
 資本主義肩入れ型と私が名付けている反論とは、「資本主義にも同程度、もしくはそれ以上の同様の問題があるにも関わらず、この論の抜け穴だけを指摘し、その1つの抜け穴を根拠に、だからこの論は成り立たないと反論するもの」です。

 議論をする際に陥(おちい)りやすいポイントを挙げておきます。
 一般にA案とB案の両者を比較する際に、A案のデメリットのみをあげつらって、だからA案はダメだという人がいます。政治討論番組を見るかぎり、政治家の討論も評論家の討論もこうした議論に陥りやすいようです。デメリットの全くない案などあるでしょうか? 欠点の全くない製品もないはずです。
 正しい議論とは、各案それぞれのメリットとデメリットを可能な限り列挙し、列挙したそれぞれの重みを考慮し、各案それぞれに点数をつけていき、最も点数の高いものが最も妥当な案だと判断することではないでしょうか?

 私は常々そのように考えていますので、この論を認めない人から「あなたの考えの○○が良くない」と言われても、「ああ、そうですか。そういう面もあるでしょうね。でもトータルで比較すると資本主義経済よりずっとマシだと思いますよ」という論調で反論します。
 ですから、生体社会システム論にはこういうデメリットがあるという新たな指摘は歓迎しますが、数点のデメリットを根拠に、その論は成り立たないと主張する人には反論する気さえしません。それは資本主義肩入れ型の人の論法です。では逆にお尋ねしますが、資本主義システムのデメリットや矛盾点や解決不可能な点はどれだけあるんだって話です。では、いくつかの反論に答えていきましょう。

通貨が減価するなら金や銀に換えて保有すればいいので、減価システムは成り立たない

 「お金を金や銀に換えて保有しておけば減価しないという抜け穴がある。だから互助経済論は破綻している」といって互助経済論や生体社会システム論は破綻していると言う人がいます。
 いちいち個別の事例について反論していくのも面倒なので、もう少し一般化して反駁(はんばく)してみます。
 これも一種の資本主義肩入れ型と言えるでしょう。資本主義経済には抜け穴がないですか? 抜け穴なんて、探す気になればいくつも見つかります。それが問題になるのなら、その都度法律を作ってその抜け穴を塞いでいけばよいのです。実際に、我が国の法律もそのようになっているでしょう。その法律の抜け穴というのもあり、さらに法律でそれを塞いだり、そのままにしてあったりします。
 例えば、生活保護が抱える諸問題があります。1ヶ月間アルバイトをするより、働かず生活保護をもらう方がより多くの収入がある。医療費が無料になるので、悪徳医者と結託して、診療報酬の一部をキックバック(ミ見返り)してもらうという不正方法が可能になる。
 資本主義社会にはこのような不正がはびこっています。違法行為だけでなく、合法的にもズルいことをする手立てはいくらでもありますし、実際そうする人もいます。でも、全ての人がそうするわけではないので、社会が成り立っています。とはいえ、現代の日本は悪徳官僚、悪徳役人、悪徳政治家、談合をする悪徳企業などが、私たちの税金を食いつぶしていて、その数があまりに多いので、日本は破綻への道を突き進んでいる状態です。

 さて、話を戻して反駁しておきます。
 金や銀に替えて保有しておいても、生体社会ではそれを運用してお金を増やすことができません。貴金属などに替えるそれが減少することは防げますが、それが限度です。ということは、その人は生活するにあたって、お金を使いますが、そのお金が底をついた時には、その貴金属を換金する必要があります。それらの資産を減らしたくないのでしたら、働いて収入を得るか、ベーシックインカムの範囲内でつつましく生活するしかありません。

競争こそが経済の発展の原動力であり、競争を排除するのは逆効果だ

 生体社会にして、競争をなくしたら、人々は努力しなくなるから、生体社会は貧しくなり破綻するだろうという反論もあります。
 まず、そこには誤解があります。競争をなくすとは言っていません。無駄な競争をなくすと言っているのです。では、無駄な競争とは何でしょうか? それはこれまでに述べてきたように、限られたパイ(市場)を奪い合うための労力(つまり競争)が無駄だと言っているのです。より良い製品を作り出す競争は否定していません。
 しかし、企業が統合されていくなら、そうしたクリエイティブな製品の発明競争のようなものもなくなってしまうだろうと反論するかもしれません。しかし、その心配はないと思います。人間には向上心が本能的に備わっていると私は信じていますので、目に見える他の企業との競争がなくなっても、人は努力し続けるでしょうし、進歩し続けるでしょう。そこには、昨日の自分との競争があります。無駄でない競争はどんどんしていいのです。
 それに、資本主義の競争って、そんなに前向きな競争でしょうか。もちろん、そういった競争もあるでしょうが、大部分は顧客の奪い合いの競争と会社内での出世争いではないでしょうか。そんな競争は無駄なだけで社会にとっては何の益もありません。

 加えて言うと、競争よりも協力というのがこの生体社会論の考えです。
 協力ができる人は上手に競争することができます。逆に、協力ができず、競争しかできない人の競争は下手な競争です。前者の競争は有益な競争、後者は無益な競争と言っていいでしょう。その差異は根底に「協力」とか「貢献」といったキーワードがあるかないかにかかっていると言えるでしょう。
 無益な競争と有益な競争の特徴をあげてみましょう。

有益な競争無益な競争
適切なルールに則った競争ルールを無視してでも勝たなければならない
負けても清々しく、次につながる負けることは死を意味し、深刻になりすぎる
結果が全てではなく、過程も楽しめ、やりがいもある 結果が全てで、過程(プロセス)を重視しない 

 ご覧いただいて分かる通り、スポーツでの競争は有益な競争の特徴が全て当てはまります。しかし、残念ながら資本主義社会での企業間の競争や企業内での個人の生存競争は無益な競争の特徴を帯びているのではないでしょうか。
 これは教育にも言えることですが、子供に協力することを学ばせれば、教えなくても、自然と必要な時には適切に競争します。しかし、競争しか教えず、協力できない子供の競争は無益な競争になりがちです。それは、協力の方がより高度なスキルが要求されるため、協力さえきちんと学べば、教えなくても自然と競争はできるようになるからです。

善意に基づいて成り立つという社会システムは危ういのではないか

 バランスの問題だと考えます。
 性悪説に基づいて、法律でがんじがらめにし、互いを監視し合う社会は住みにくいでしょう。逆に、お金がない理想社会、国境のない理想的な社会をいきなり目指すのも非現実的だと思いますし、人々の民度や意識レベルが現状のままで、そのシステムを実施すると社会は成り立たない恐れがあります。
 生体社会が実現したら犯罪は激減するでしょうが、なくなることはないと思います。もちろん、ずるいことをする人も少なからずいるでしょう。それでも、大多数が健全であれば、モラルハザードは起こらないはずです。実際、資本主義社会でも抜け穴とか「こんなことを多くの人がしたら破綻する」ということがたくさんありますが、そうした抜け穴を使わない人が多数なので、何とか機能しているのです。
 健康な人であっても、毎日5000個もの癌(がん)細胞が発生しているという研究データがあります。それを免疫細胞が抑えこんでいるのです。
 癌細胞は何も貢献することなく、通常の細胞の3~8倍のブドウ糖を消費すると言われます。資本主義社会には癌細胞のような人が数多く存在します。人間で言うと末期の癌患者だと言えます。ですから、死んでしまう前に、新しい社会システムへの転換が必要なのです。それなのに、誰も新しいイデオロギーを見つけようとしません。他にそういったものが存在しないのならば、この社会システム論を実践してみるしかないと思いますが、どうですか?

 ちなみに、癌という漢字は「やまいだれ」に「品」と「山」です。品物が山のようにうず高く積まれる状態が「がん」とはよく言ったものです。

不動産による不労所得はどのようになるのか

 貴金属での富の保全に関しては分かったが、家賃収入などの不労所得があれば、一生働くことなく生活できるではないか? おまけに、相続税がないとなると、その子も一生働かなくてもいいことにならないか?
 この反論に対して、どのように答えますか? これに関して、正しく答えられる人は、このシステム論をきちんと理解しています。

 人体の仕組みを見渡しても、権利を持っているだけで、何の社会貢献もしないのに、人一倍栄養や酸素を受け取る細胞などあるでしょうか? 強いて言うならば、前述の癌細胞です。
 身体の仕組みにないものですから、生体社会にそんなものはない方がいいのです。癌細胞も免疫細胞に殺されます。もちろん、そういう人を殺すわけではありません。
 これを詳しく述べていくと、また長くなりますから、簡単に済ませますが、生体社会の考えに沿うならば、土地はみんなのものであるべきです。共産主義社会でも全ての土地は国有地ですので、同様の考えです。空気が誰のものでもなく、みんなのものであるのと同様です。ただ、その体制にどのように移行していくかは、いくつかの方法が考えられます。

 石油は化石燃料と呼ばれるように、動物の死骸(しがい)が数千万年の時をかけて化石化してできたものです。(そうでないという説もあります) 石油は本来、世界中の人のものであるだけでなく、未来の人も含めてのみんなのものであると考えます。そのように、悠久の時の貴重な成果を「産油国」に「現在住んでいる人」で「権利を持つ人(石油王など)」は、当然自分の権利であるかのように、独占し、贅沢な生活を送っています。石油王と呼ばれる人は社会に対して何ら貢献していないのに、未来を含む全人類の共有の財産を食いつぶしているのです。
 イエスキリストはこう言いました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。将来、霊界と通信できる携帯電話(?)が発明され、この世でお金持ちだと、来世で天国に行くことができないことが証明されると、こぞって土地の権利を持つ人たちがその権利を手放し、この生体社会が実現するかもしれないと、妄想したりします。

通貨の減価が本当に好景気をもたらすのか(ヴェルグルの奇跡)

 「理論はだいたい分かったが、実際にそれが社会で通用するのか疑わしい」という批判もあります。特に、通貨の価値が減っていくというシステムがうまく機能するとは思えないと感じる方が多いようです。

 実は、歴史を紐解(ひもと)くと実際に減価する通貨のシステムが採用された事例があります。
 1930年代初めのことです。オーストリアにヴェルグルという小さい田舎町がありました。その当時で人口4300人ほどの街でしたが、その街も世界大恐慌の影響を受け、約500人の失業者を抱えていました。新しく市町長になったミヒャエル・ウンターグッゲンベルガーは、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell, ドイツ人実業家・経済学者、1862~1930)の唱えた自由貨幣の発行を1932年7月の町議会で決議しました。それはスタンプ通貨と呼ばれるものでした。
 新町長のウンターグッゲンベルガーは、地域の貯蓄銀行から32000オーストリア・シリングを借り入れ、それを担保として32000オーストリア・シリングに相当する「労働証明書」という紙幣を作成しました。町は道路整備などの失業者対策事業を起こし、失業者に職を与えました。そして、その労働の対価をオーストリアの通貨であるシリングではなく、労働証明書で支払ったのです。もうお分かりでしょう。その労働証明書には減価する仕組みが組み込まれていたのです。

 労働証明書は、月初めにその額面の1%のスタンプ(印紙)を貼らないと使えない仕組みになっていました。具体的には、10シリングの紙幣は月が替わると0.1シリング分のスタンプを貼り付けないと10シリング分の紙幣として使えない仕組みになっていました。言い換えれば、月をまたぐごとに労働証明書は額面の価値の1%を失なうということです。そのため、労働証明書を手元にずっと持っていても価値が減っていくだけなので、それを手にした誰もができるだけ早くこのお金を使おうとして、消費が促進され、実際に景気が良くなりました。

 どれくらいの効果があったかの記録を見てみましょう。労働証明書は公務員の給与や銀行の支払いにも使われ、町中が整備され、上下水道も完備され、ほとんどの家が修繕され、町を取り巻く森にも植樹されました。この労働証明書発行まで町は税の滞納に悩んでいましたが、税金もすみやかに労働証明書で支払われるようになりました。中には税金の前払いを申し出る者まであらわれたと記録に残っています。その理由は説明の必要がないでしょう。こうして、ヴェルグルはオーストリア初の完全雇用を達成した町となりました。
 具体的な数字で検証してみると、当初発行した32000シリングに相当する労働証明書は、必要以上に多いことがわかり、町に税金として戻ってきた時に、その3分の1だけが再発行されることになりました。労働証明書が流通していたのはわずか13ヵ月半でしたが、その間に流通していた量は平均5490シリング相当に過ぎず、住民一人あたりでは、わずか1.3シリング相当に過ぎなかったということです。しかしながら、この労働証明書は、週平均8回も所有者を変えており、13.5ヵ月の間に平均464回循環し、254万7360シリングに相当する経済活動を生み出したといいます。これは通常通貨のオーストリア・シリングに比べて、約14倍の流通速度にもなり、大きな経済効果を生み出すことが証明されました。

 ヴェルグルの成功を目の当たりにした多くの都市はこの制度を取り入れようとし、1933年6月までに200以上の都市での導入が検討されたといいます。しかし、オーストリアの中央銀行によって「国家の通貨システムを乱す」として禁止され、1933年11月に労働証明書のシステムは廃止に追い込まれてしまいました。

 労働証明書の裏面には以下のように書いてありました。
 「諸君、貯め込まれて循環しない貨幣は、世界を大きな危機、そして人類を貧困に陥れた。経済において恐ろしい世界の没落が始まっている。いまこそはっきりとした認識と敢然とした行動で経済機構の凋落を避けなければならない。そうすれば戦争や経済の荒廃を免れ、人類は救済されるだろう。人間は自分がつくりだした労働を交換することで生活している。緩慢にしか循環しないお金が、その労働の交換の大部分を妨げ、何万という労働しようとしている人々の経済生活の空間を失わせているのだ。労働の交換を高めて、そこから疎外された人々をもう一度呼び戻さなければならない。この目的のために、ヴェルグル町の『労働証明書』はつくられた。困窮を癒し、労働とパンを与えよ」と。

 このことは地域通貨に関心のある人の間では非常に有名な話です。