資本主義に替わる理想的な社会システムと未来のビジョンを提示します
第三章 生体社会システムで社会がどう変わるか
第1節 労働について
私たちは皆、資本主義思想に洗脳されていますので、資本主義社会に潜む呪いに気づいていません。呪いとは膨大な量の無駄な仕事をさせられているということです。私たちは資本主義やお金の奴隷となって、苦役をさせられているということに気づかなければなりません。その目を覚まさせてくれるのがこの生体社会システム論です。生体社会となれば、私たちは無駄で非効率で嫌な労働から解放され、人間らしい人生を取り戻すことができます。また、生まれながらに裕福な人もいれば、そうでない人もいます。身体に障害を持つ人もいれば、そうでない人もいます。民主的な国に生まれる人もいれば、独裁国家に生まれる人もいます。その他、容姿、背丈、家族、居住地、環境など、この世の中は不公平だらけです。しかし、自分の境遇に愚痴をこぼしてもなんにもなりませんし、人を妬んでも何の解決にもなりません。もちろん、生体社会システムに基づく社会が実現しても、人々に不公平があることは変わりません。ですが、不公平は少ないに越したことはありません。
ここでは無駄な労働とより公平な社会の実現についてお話しします。
無駄で非効率な仕事にあふれた資本主義社会
一般に、外国人は仕事の効率を重視しますが、日本人は労働時間を重視する傾向があるようです。日本では残業をしていると、熱心に仕事をしていると思われますが、外国人の目には、あの人は仕事の効率が悪いから、残って仕事をしているんだと映っているようです。生体社会が実現すれば、仕事を効率よく終わらせ、交友の時間、プライベートの時間、趣味の時間を多くとることができる理想的な社会となります。
生体社会が目指すのは分業社会
資本主義社会では失業すると生活に困るので、何とかして職を探し、働く必要があります。個人においても、社会においても、そうしないと社会が成り立たないと誰もが信じ込んでいます。しかし、生体社会では発想を転換します。その発想はコペルニクス的展開とも言えますし、単なるコロンブスの卵的単純な発想に過ぎないとも言えます。難しいことはありません。家事労働の理論を社会理論にあてはめるだけです。
昔の家事労働はたいへんでした。水汲み、炊事、掃除、洗濯、裁縫、子育てなど多くの時間的、肉体的な労力を必要としました。しかし、技術革新により、水道、ガス、電気などのインフラが整い、さらに、炊飯器、電子レンジ、掃除機、洗濯機などの家電製品の登場により、家事労働は格段に楽になり、短時間になりました。それにより、主婦(主夫)はゆとりのある生活を手に入れることができました。イノベーションが私たちの生活を豊かにしたのです。
家事仕事はそのように楽になりましたが、私たちの社会での仕事は楽になったのでしょうか?
飛行機、新幹線、PC、インターネット、電子メール、携帯電話などの普及により、以前に時間をかけてしていたことが短時間でできるようになりました。製造業も工場のライン生産により、人件費を抑え、短時間で均一の製品を安価に作ることができるようになりました。
それでどうなったでしょうか? 失業者が増え、若者は就職難となりました。忙しさは昔と変わりません。むしろ、過去の時代の人たちより忙しい毎日を送っているのかもしれません。
その両者の違いはどこにあるのでしょうか? 家事労働は家族で必要な仕事を家族で分担すればいいのですが、資本主義社会はそうはいかないのです。仕事がなければ無駄な公共事業をしてでも仕事をしなければなりません。他の人がしている仕事を競争して奪ってでも仕事をしてお金を稼がなければなりません。
お分かりでしょうか? 家事労働のように、社会で必要な仕事を分担しさえすれば、私たちはもっとゆとりのある生活と労働環境を手に入れることができるのです。他の企業と仕事を奪い合う必要はなく、ライバルを蹴落とす必要もなく、厳しいノルマに追われることもありません。
その分業体制をどのように実現するかは順に述べていきますが、資本主義社会を続けている限り、この呪縛からは逃れられそうもありません。可能性があるとすれば、法律で労働時間を制限することぐらいでしょう。
生体社会が目指すのは互いに助け合う社会です。社会全体が必要とする労働の全てをできるだけ公平に社会の構成員で分配することを目指します。公平にというのは、必ずしも同量を分担するというものではありません。より多く社会に貢献した人にはより多くの収入があり、逆に貢献度がほとんどない人はベーシックインカムの収入しかないという意味での公平です。「社会全体が必要とする労働」には、農業、漁業、工業、サービス業などはもちろんのこと、家事や知的労働も含まれます。
働きたくなければ働かなくても構いません。ベーシックインカムにより、最低限の収入は保証されます。逆に、たくさん働きたい人は働けばいいのです。そうすれば収入も増え、より豊かな生活をおくることができます。共産主義とは違い、働くだけ収入は増えます。
高齢化社会も問題ない
社会全体に必要な製品やサービスを社会の構成員で分業し、分担すれば、社会の効率が良くなり、ゆとりのある社会が実現するということをご理解いただけたでしょうか。これは経済学を理解するのに必要な微分積分といったレベルではなく、小学校の算数レベルの問題です。それをわざわざ労働を創り出してでも、他の人がしている労働を横取りしてでも、働いて収入を得なければ生活できないという非効率な仕組みになっているために、財政赤字は膨らみ、財政破綻を心配し、高齢者をどう支えるのかが問題となるのです。頭を一度リセットして考えてみてください。これだけイノベーションが進み、マニュアル化が進んで効率良くなった社会なら、高齢者を少ない人数で支えることなど困難なことではないと思いませんか?
この分業はベーシックインカムの導入なくては実現しません。仕事がなくても最低限の収入は保証されるという安心があって、私は月に80時間(1日4時間、月20日のペース)働こうとか、月に10時間だけ働こうとか、自由に決めることができるのです。
失業率が高くても問題がない
ベーシックインカムがあるため、失業率が高くても問題はありません。衰退産業を保護する必要もありません。失業率が高いということは、見方を変えれば、社会全体が必要としている労働力が足りているということです。失業率が10%ならば、全労働者が仕事量を約1割減らすことができるという計算になります。本当は喜ばしいことなのです。人体で各臓器(心臓、肝臓など)や各器官(骨、皮膚など)はそれぞれの役割を果たすことによって、人体全体に貢献しています。その貢献をすることによって、自分のところにきちんと血液が運ばれてくるかどうかは一切心配していません。
生体社会での企業や個人の役割は「社会に貢献すること」で、お金はきちんとベーシックインカムで循環させることが保証されているので、生活のためのお金は心配しなくてもいいのです。もっとお金が欲しい人は次の2つの方法で収入を増やすことができます。
ひとつは、労働時間を長くする方法です。生活が保障された上で、労働を分担するので、その労働が競りにかけられます。つまり、「1000円でその労働をする人はいますか?」と市場に投げかけ、希望者が多数なら、「900円ではどう?」となり、バランスが取れるところで落ち着くはずです。このように、資本主義の市場原理に似た市場原理が生体社会でもみられるようになるはずです。もちろん、それにより労働の奪い合いが生じ、無駄な労働が増えるようなことはありません。
もうひとつは、より高い能力を身につけ、給料が高い仕事に従事することです。共産主義論の労働価値説とは違い、労働時間イコール労働の価値だということではありません。脳は体重の1%程度の重さですが、エネルギーの消費量は約10%なので、他の平均的な細胞の10倍ほどのエネルギーを消費するという計算になります。ですから、生体社会でも、重要度の高い仕事や特殊な技能を持つ仕事は、単純労働に比べて高い賃金にすべきだと考えていますし、それが本当の平等というものです。ですから、生体社会になって、自己啓発をしなくても生活できるから、自己研鑽をする人がいなくなり、社会全体の生活レベルが下がるとか、文明が衰退するとかはありえません。
パレートの法則をご存知でしょうか。働きアリを観察すると、よく働くアリと少し働くアリと働かないアリの比率が約2:6:2になるといいます。アリの社会で必要な仕事の8割はよく働く2割のアリで成し遂げられ、残りのアリで残りの2割の仕事がなされるといった比率になるとのことです。ここで重要なのは2割という数字の妥当性ではなく、一部分の人が大部分の仕事をしているということです。このような現象は社会の随所に見られます。商品の売上の8割は、全商品のうちの2割の銘柄で生み出している。売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出している。仕事の成果の8割は、費やした時間全体の2割の時間で生み出している、などです。
では、2割のよく働くアリを集めて、勤勉なアリの集団を形成するとどのようになるでしょうか? 予想に反して、その中の2割がよく働き、残りの8割はあまり働かないという構成になってしまいます。逆に8割の怠けアリを集た場合どうなるでしょうか? これも予想に反して、その中の2割はよく働くようになり、いずれにせよアリの社会はうまくまわっていくのです。
人間社会でも同様なことが起こるとするならば、働かない人を社会のお荷物だといって社会から隔離したら、今まで働いていた人が働かなくなるかもしれないということです。だったら、働く、働かないに関わらず、気前良く全員にベーシックインカムを配布した方がいいということになります。
無駄な経理が簡素化される
生体社会では税の単純化、自動徴収化により莫大な行政コスト、社会コストが削減できます。税は通貨の減価分と上限を超えた分の2種類のみで、それらは自動的に漏れなく徴収されます。つまり、申告の必要がなくなります。私たちの身の回りには様々な税があふれています。それらが複雑にからみ合って、特別会計といった目の届きにくい、何に使われているかはっきりとしない税も身の回りにあふれています。確定申告をしたことがある人は税額を算出し、税を収めるのは面倒なことをよくご存知だと思います。それらの苦労が一切ない社会が実現します。それに伴い、税理士は必要なくなり、国税庁も必要なくなるため、何万人分もの仕事が不要になります。
資本主義社会では企業の仕事の約3割が経理の仕事だとも言われます。経理の仕事は税を正しく申告したり、取引先や顧客となる企業や個人とのお金の流れを正確に把握したりするのに必要なものです。しかし、生体社会では税の申告の必要はありません。ネットの口座で全てが一元管理されるので、経理はその取引履歴を見るだけで把握でき、見積書や領収書を発行したりする手間も不要になるかもしれません。企業はこれだけでかなりの仕事量を削減することができます。
税の申告が不要になり、税務署も不要になる
税務署の役割は、「適正・公平な課税及び徴収の実現」とのことですが、私にはそれが納得できません。確かに、税務署に正しく申告することによって、「同業種間」の不公平は是正されるでしょう。つまり、外食産業のA社と同じく外食産業のB社というような比較で見ると公平です。しかし、1個50円の手作りコロッケを一生懸命に何個も売って得たコロッケ屋さんの収入20万円と、言葉巧みに高い祭壇を薦めた1件で儲けた葬儀屋さんの20万円が同じに評価されるのが、資本主義社会の税の仕組みです。このように、労働内容や社会貢献度が全く違うのに、収入が同じだからということで、同じ課税をされるのが本当に公平なのでしょうか? 少なくとも私には納得できません。資本主義社会にどっぷりと浸かっていると何が公平で、何が不公平なのかをいいようにごまかされ、知らぬ魔に洗脳されています。皆さんの周りにも、おいしい仕事(割のいい仕事)で稼いでいる人、利権の存在により優遇されている人、その逆の人など、たくさんいると思います。
消費を喚起しなくてもよい
生体社会では通貨が自動的に循環するので、わざわざ通貨を循環させる必要はありません。循環させなくても、通貨の循環が良い状態、つまり好景気が続きます。しかし、資本主義社会では通貨をわざわざ労力を使って循環させなければならなりません。そのため、経済学者も家計に関しては節約方法をアドバイスしながら、日本経済に対しては、消費を増やさなければ景気が良くならないと、矛盾することを平気で言います。このように、各家庭レベルでは正しいこと(節約をする)でも、それが合成されると景気が悪くなるといった結果が生じることを経済学の用語で、合成の誤謬と言います。私はこの合成の誤謬が生じるのは、資本主義のシステムが間違っているからではないかと考えています。生体社会では全ての家庭が節約をしても、経済が冷え込むということはありません。節約は家庭にとっても、社会にとっても好ましいことです。資本主義社会の企業は利益を追求するのが目的です。利益がなければ、社員に給料を支払うこともできませんし、株主に配当することもできませんし、事業を継続したり、拡大したりすることもできません。ですから、利益の追求が社会への貢献よりも優先されがちになります。
生体社会での企業でも利益の追求は望ましいことですが、必須ではありません。仮に利益が出なくても、その企業の仕事が社会に必要な仕事であるならば、その企業に税が投入されます。株主のように、配当を受け取る人はこの社会に存在しません。お金にお金を生ませる行為は全て禁止です。何らかの具体的な貢献なくしては収入が得られない仕組みです。特権階級はありません。
資本主義システムでは消費者にとって無駄なものあっても、益のないものであっても、企業存続のために、利潤のために、消費を促させなければなりません。しかも、他社の製品ではなく、自社の製品が売れなければなりません。たとえ他社の製品の方が優れていても、自社の製品を売り込むのです。この努力は社会全体から考えれば、非常に非効率なものです。
ある大手調味料メーカーは、主力商品の消費量を増やすために、穴を大きくしたと言われます。(本当は穴の数を増やしたのが真実と主張する人もいました) そうすることによって、ふりかける量が多くなるからです。また、殺虫剤のスプレーを上から押すタイプからピストル型の噴霧器にすることによって、子供がおもちゃがわりに使って消費量が増えることを狙うなど、消費者に有益かどうかは関係なく、消費量を増やすことに創意工夫と努力が注がれています。包装もより豪華に見えるように、より量が多く見えるように工夫され、それによって、より高額な価格設定が可能になり、利潤が増えるような工夫がされています。テレビショッピングなどは、心理学の研究成果により、消費者の消費欲をくすぐるようなプレゼンテーションの流れが確立されています。
テレビCM、電子メールでのセールス、電話セールス、訪問セールスでの迷惑かつしつよう執拗な勧誘は資本主義を続けている限り延々と繰り返されます。
大阪のおばちゃんのカバンの中には必ずと言っていいほどキャンディーが入っていて、「あめちゃんどうぞ」と、キャンディーを円滑なコミュニケーションの道具として利用することは全国的にも有名な話です。普通に考えれば、さぞかしキャンディー製造会社は儲かっているだろうと思うでしょう。しかし、驚くことに大阪府のキャンディーの1人あたりの消費量は全都道府県中で下から3番目なのだそうです。そのからくりはもうお分かりでしょう。あめちゃんを貰った人は自分がな舐めるのではなく、貰ったあめちゃんをまた他の人にあげるのです。大阪のおばちゃんの間ではあめちゃんが循環して、おばちゃん間のコミュニケーションを支えているのです。
この例からも分かるように、良く循環する仕組みができあがると、社会全体のお金の量は少なくてもすみます。資本主義社会ではお金が循環されずに貯め込まれるために、通貨供給量を増やすなどのインフレ政策が必要になったりしますが、生体社会ではそういった経済政策は必要ないのです。
企業間で無駄な競争をしない
生体社会での企業は社会全体で必要とする労働力をいかに効率よく分担するかを問題にしますが、資本主義システム下の民間企業では、自分の所属する社が利益をあげないと存続できない、給料が払えないということから、市場でいかに勝ち残るかを問題にします。根本が違うのです。共存共栄でいかに分け合うかと、弱肉強食でいかに奪い合うかの違いです。資本主義社会にどっぷり浸かった人にとって、販売競争の何が非効率なのかということが理解しにくいと思いますので、例を挙げて説明します。
保険や携帯電話の販売をイメージすれば分かりやすいでしょう。ある優秀なA社の営業員が顧客を1000人獲得し、給料もボーナスもたくさんもらっているとします。ある日、その営業員がヘッドハンティングされ、ライバル会社であるB社の営業員になりました。そこでも彼は活躍し、A社と契約していた1000人の顧客をB社に鞍替えさせ、そこでも高額な給料とボーナスを受け取りました。
さて、その優秀な営業員の行為は社会全体から見れば意味のある行為なのでしょうか? 結果から見れば、彼の労働は全く無駄なことだと言えるでしょう。彼の高額な収入の全ては商品代金に上乗せされているわけで、そういった販売競争をしなければ私たちはより安い商品を購入することができるのです。
当然、こうも考えられます。A社もB社も一律に10,000人の営業員(セールスパーソン)を減らせば同じことです。営業員が減っても商品の供給量が減るわけではありませんので、消費者が困ることはなく、商品価格は安くなります。「そんなことをすれば、20,000人の雇用が失われるから社会にとってマイナスだ」というのは資本主義に洗脳された頭で考えるからです。生体社会では商品の供給量を維持したまま社会全体の労働量が減り、それに伴ってゆとりが生まれます。それだけでなく、営業員が使うガソリンやチラシやダイレクトメールで使用される大量の紙などの資源の大幅な節約にもなります。環境保護を真剣に考える人はこの経済システムがどれだけ有効かを真剣に検討していただきたいと思います。おそらくどんな方法よりも有効なのではないかと思います。
競争こそが人のヤル気を出し、文明の発達を促進するもので、競争のない社会になると人はモチベーションを維持できなくなり、技術革新も鈍ってしまう。だから、競争は必要だと反論する人がいます。
しかし、私はそうした心配は杞憂に終わると考えています。人間はお金というモチベーションがなければ競争しない、努力もしないといった存在ではないと考えますが、いかがでしょうか。部活動に熱心な子供たちはお金がかかっていなくても、熱心に練習に励みます。お金の代わりに名誉が動機づけとなるといった場合もあるでしょう。人は誰しも向上心を持っていますので、資本主義的な弱肉強食の競争をなくしても、何ら問題ないでしょう。より良いものを目指す、優越への目標は人類が持つ素晴らしい特質です。
逆に、こちらから反論しましょう。資本主義には競争があると言いますが、生体社会の社会に比べて本当にフェアな競争が行われているのでしょうか? 資本主義社会にあるのは例に挙げたように無駄な競争が多く、極端に不公平な競争、例えばスタートラインが極端に違う競争が多いと思います。それだけでなく、本当に競争すべき場面では競争が行われていないとさえ感じられます。たとえば、企業がA社と契約すべきか、B社と契約すべきか、という選択の場面において、本来は社会にとってどちらがより良い選択であるかで決定するのが望ましいでしょう。資本主義社会では、社会にではなく、会社にとって得になる方を選ぶことになります。でもそれならまだマシな方で、より良い接待をしてくれた会社を決定権者が選ぶということが当たり前のように行われています。資本主義社会は賄賂が横行する社会だと言えるでしょう。
また、会社には同族経営という会社も少なくありませんし、公務員にあっても縁故採用が広く行われています。生体社会の企業ではそのようなことはしません。その起業に最も適した人事をより民主的な方法で決める方法を模索したいと思います。
神様があなたに給料を支払うとしたら
もし仮に、完全に公平な給料といった理想形が存在するのならば、どのような給料体系になるでしょうか? 神様が給料を支払ってくれるのならまだしも、そんなことはあり得ないと言われるかもしれませんね。ということで、神様が私たちに給料を支払うとしたら、どのような基準で支払うでしょうか? もしかしたら、社会への貢献度に応じて、給料が支払われるかもしれません。社会に対する貢献度の高い人には高い給料を、逆に低い人には低い給料を、社会に害悪を及ぼす人からは逆に給料を取り上げるかもしれません。生体社会はその状態に近い社会ステムです。あなたの年収はあなたの貢献度に対して適切でしょうか? 胸を張ってそれをもらうに値する貢献をしているでしょうか? 残念ながら、そうではない人があまりに多いのが現状なのです。そういった人たちは社会に集るシロアリであり、寄生虫であり、癌細胞です。
もし、貢献度に比例して給料が決まるとしたら、人々の給料はどのようになるでしょうか? 非正規雇用の人と同じ仕事をしている正社員の給料はダウンです。同じ仕事をしているにも関わらず、非正規雇用だからということで低い給料に抑えられている人の給料はアップです。下請けや孫受けのために低賃金で働いている人たちの給料は大幅にアップします。逆に、中間搾取をしている業者の給料は大幅ダウンです。
ファーストフード店で働いている人、コンビニで働いている人は社会に必要な仕事をしているので、給料アップです。天下り官僚は社会に貢献的な仕事をしていないので、当然コンビニ店員より安い給料になります。もし、天下りして社会にマイナスになるようなことをしているのなら、給料はマイナスにしたいぐらいです。一般的には、名刺を差し出された時に「独立行政法人◯◯機構の理事」とあると偉い人だと考え、コンビニのアルバイト店員だと下に見る傾向があります。しかし、どちらが社会に貢献しているでしょうか? どうでしょうか? あなたの給料を見直してください。あなたはお天道様から見ても、いただいている給料に対して、ふさわしい仕事をしているでしょうか。
後述しますが、生体社会では、社会への貢献度に比例して、収入が上がるような仕組みになっています。そのためには、この国の隅々にまで蔓延るものを打ち壊さなければなりません。既得権益者の反対は熾烈を極めるかもしれません。
労働と賃金
資本主義社会では、賃金を伴わない労働は仕事と認められにくく、職業とも認められにくいという現状があります。逆に、賃金を伴えば、社会に貢献的でない労働であっても仕事であり、それを職業としていると言える傾向があると思います。生体社会では、賃金を伴わなくても、社会に貢献的な労働は仕事として認めたいですし、職業として認めたいと思います。生体社会では賃金の有無が基準ではなく、社会への貢献度の有無や多寡に注目すべきだと考えています。無償労働というと、主婦(主夫)の家事労働などのアンペイドワーク(unpaid work)を思い浮かべるかもしれませんが、もっと広く、賃金換算しにくい、または賃金換算が不可能な社会貢献的な行為全てを含みます。たとえば、PTAの役員とか、地域の祭りに携わる人といったように。
考えてみれば、私たちの暮らしの中には、数値化することが難しく、賃金の支払が難しい労働が数多くあります。もちろん、生体社会になったからといって、それらが明確に数値化できるわけではありません。この節では労働について考えてきましたが、次の節では企業について考えます。そこで、賃金の話も合わせてしたいと思います。
第2節 企業について
資本主義社会での企業は利潤を目的として、市場の奪い合いを繰り広げる弱肉強食の殺伐としたものとなりがちです。それが嫌な人は公務員や既得権益で守られた企業のような競争のない組織に逃げ込みます。生体社会論が描く社会像はそういった殺伐としたものではありません。では、新しい価値観で作られる企業はどのような企業なのかを見ていきましょう。生体社会の企業の目的
資本主義社会下の企業の目的は「利潤の追求」です。株式会社の場合は「株主の利益を最大化する」ことです。しかし、資本主義社会においても、それに関しては疑問を持つ人も多くなってきました。利益を追求するだけではなく、社会への貢献も考えるべきだという考え方も一般的になってきました。以前の経済学では、市場に任せておけば、市場には神の見えざる手が働いており、社会に需要があるならば、それを供給する企業ができ、全てがうまくまわっていくと考えられていました。しかし、なかなかそうはいかないということが明らかになり、修正資本主義と言われる考え方が台頭してきました。
株式会社は株主の物だと言われますが、その考え方に違和感を抱く人も少なくないようです。その人たちは会社は社会に貢献するためのものであって欲しい、そこで働く従業員のものであって欲しいと感じているようです。
つまり、資本主義社会の企業は、「利潤の追求」、「株主への配当」、「社員の雇用」、「社員に対する給料の支払い」、「社会貢献」、「利益を出し続けることによっての会社の存続」、「税の正しい申告」といったいくつもの目標を同時に達成する必要があります。それは非常に困難なことです。
それに比べて、生体社会での企業の目的は「社会貢献」と「社員への貢献」です。非常にシンプルです。
生体社会の企業の特徴
資本主義社会での企業には同時に達成すべき苛酷なノルマが課せれているということでした。そのため、「社会貢献」という目的は薄まってしまっています。テレビCMなどでは盛んに「お客様のため」とか「社会のため」という美辞麗句を並び立て、企業イメージのアップを図りますが、実際に職場に入れば、売上至上主義で、苛酷な売上ノルマがあります。朝礼なども目標達成のモチベーションを上げるためのものでしかないことは純粋な民間企業で働いたことのある人ならば誰もが経験していることです。企業として存続して、人を雇い、給料を支払っていることだけで社会に貢献していると考えている企業は少なくありません。人を雇い、税を納めていることを根拠に。
生体社会論の考えは、人体の各臓器や各器官が人体全体で必要とする役割を分担するように、各企業が社会全体で必要とする労働を分担しようという考え方です。職がない人を雇用することが目的でもなければ、給料を支払うことが目的でもありません。企業の目的は社会で必要とする製品やサービスを提供することと、それに付随して、その企業で働く人の幸福に寄与することだけです。
特徴1 利潤追求の義務が企業にはない
資本主義の組織には自由競争の環境に身を置く民間企業もあれば、警察、消防、自衛隊といった利潤を追求しない組織があります。後者は公務員として、その給料には税が充てられます。それ以外にも財団法人のような非営利団体やNPO法人のような非営利組織、第三セクターと呼ばれる半官半民の組織もあります。このように、私たちはどの組織に所属するかによって、苛酷な利潤追求のノルマに追われ続けるか、厳しくはないが利潤を追求するか、全くそうでないかに分かれます。
生体社会にはそのような極端な差はなくなります。生体社会では企業に利潤追求のノルマはありません。それにより、より平等な社会が実現できます。人体で企業にあたるのは臓器ですが、臓器には血液を自分の所に呼び込まなければならないという義務はありません。
利潤追求の義務がなくなると、誰もが仕事を怠け、共産主義国家のようになるのではないかと心配するかもしれません。しかし、生体社会の企業も利潤に比例して給料がアップしますから、仕事を怠けたり、仕事が雑になったりすることはありません。
逆に、利潤追求が全くない企業(組織)の仕事が怠慢になったり、雑になったりするはずだと反論する人もいます。しかし、それは資本主義社会での公務員などと同じなのですから、生体社会となったからといって、よりひどくなることはないでしょう。
生体社会では積極的に消費を促し、企業利益を高めることを目的としないということですので、公的サービスを行う企業には税を多く投入し、販売業のような利益が見込まれる企業には原則として税を投入しないという方針で社会を運営すればいいでしょう。ちなみに、企業というと利潤追求のイメージがつきまといますので、非営利の企業の場合は組織と理解していただいても構いません。言葉の違いはここでは重要ではありません。
資本主義社会では企業利益に応じて、法人税が課せられます。生体社会の企業の納税はどのようになるでしょうか。これは後述する議会で決定すべきことで、考案者の私が独断で決めるべき問題ではありませんが、2通りの解決方法があるように思います。
ひとつは、企業の税も個人と同じ仕組みにして、企業ごとに貯蓄額の上限を設け、それを超えた分を税として徴収するという方法です。もちろん、減価システムも加え、貯蓄額は減価します。そうしないと、循環しないお金が各企業に貯蔵されることになります。
もうひとつは、企業は一切お金を貯め込まず、全て経費を除いた純利益は全て給料に充てるというものです。
生体社会では企業は社会のためのものですから、資金が必要な時には事業計画書を国や地方公共団体に申告し、それが妥当なものだと認められれば、資金を融資するなり、貸与するなりされます。融資になるか、貸与になるかはその企業やその企業が行おうとするプロジェクトの内容によって判断するようになるでしょう。ただ、不正がないように、事業計画書や融資される金額といった情報は開示されるべきかもしれません。さらに、企業の経理も公開されるべきであるかもしれません。資本主義社会の会社法によると、総株主の議決権の100分の3以上の議決権を有する株主又は発行済み株式の100分の3以上の数の株式を有する株主には、会計帳簿の閲覧謄写請求権が認められています。(会社法433条1項) 生体社会の企業は社会のものですので、社会に対して経理もオープンであるべきかもしれません。少なくとも、企業を監視する組織に対してはオープンであるべきでしょう。
特徴2 給料の支払い義務が企業にはない
企業から利潤追求のノルマを外しましたので、給料支払いの義務も外しましょう。「社員に対する給料の支払い」に関して、人体の仕組みと比較して考えてみましょう。肝臓は解毒の働きを担います。肝臓は人体にとって必要不可欠な臓器なので、血液は常に栄養や酸素を肝臓に提供します。お酒を飲んだ時はアルコールを分解する必要がありますので、通常より多くの血液が供給されます。
生体社会の企業も同様です。仕事が少ない時に無理に仕事を獲得しようとする必要、つまり利潤を追求する必要はありません。仕事(社会からの要請)が発生した時に、それに適切に対処すればよく、自然とその時には売上が増えるでしょう。人体の仕組みもそうなっており、肝臓に肝細胞を養う義務はありません。肝臓が自分の役割を果たすことだけに専念すれば自然に生かされるように、生体社会の企業もチームとして社会に貢献することだけに専念すればいいのです。
資本主義社会の民間企業は企業活動から得られる利益を社員の給料に充てますし、公務員の給料は私たちの血税が充てられます。
生体社会も同様に、利潤が得やすい企業もあれば、非営利の公共サービス的な企業(組織)もあるでしょう。それだけでなく、その中間にあたる、利潤を得ることができるが、税の補助も必要な企業もあるでしょう。
生体社会の企業の社員の給料は次のようになるべきでしょう。十分に利益が得やすい企業は利潤の中から社員の給料を支払います。公共サービス的な企業(組織)の社員の給料は税から支払います。その中間にあたるような企業は利潤と税から支払います。このような仕組みが最も身体の仕組みと合致すると思われます。
ただ、税が無駄に使われないようにしなければなりません。身体の場合、血液の状態をモニタリングして、血糖値の増減や血中アルコール濃度の増減を感知し、適切な対応が取られるように、少なくとも税が投入される企業に関しては、適切なモニタリングが必要だと考えます。
資本主義社会は経理を適切に処理することには厳格ですが、出勤日数が少ない、出勤しても新聞を読むぐらいの仕事しかしていないといった人に対して、高額な給与が支払われているといったチェックはおろそかになっているようです。
生体社会には身体にあるモニタリングの仕組みを参考にして、適切なモニタリングによる、より公平な給与体系を構築したいと思います。
特徴3 雇用の義務がない
資本主義社会での非正規雇用者は何の前触れもなく、突然解雇されることもあります。その反面、運良く安定的なレールの上に乗れたために、実力がなくても、一生会社のお荷物でい続ける人もいます。それは不平等です。雇用に関して平等な社会の可能性について考えてみましょう。雇用に関して、社会の様相は次の3通りしかありません。
(a) 全員の雇用が保証される社会。
(b) 雇用が保証される人と雇用が保証されない人が混在する社会。
(c) 全員の雇用が保証されない社会。
(a)は実現可能でしょうか? 共産主義や社会主義なら可能かもしれません。
(b)は今の資本主義社会です。極端な不平等と格差が生じています。
(c)は一見最も良くないようですが、実現可能性も高く、最も平等な社会です。
生体社会は(c)を採用します。ベーシックインカムがあるので、それで問題ありません。誰も特権階級ではないのです。誰もが平等に不安定な就労なのです。
終身雇用でないと安心できないという人もいるでしょう。安心できないのは実力で勝負しても勝ち目がないと思っているからではないでしょうか。それは甘えています。
しかし、人体の仕組みを見ると肝細胞のように、常に解毒の働きを担うような、決まった働きをする細胞もあります。生体社会にも当然安定的なサービスの業種はあります。それに、特殊な技能を持つ人、いわゆる手に職を持つ人になれば、一生安定的に仕事にありつけるでしょう。安定的ですが、法的にその安定が保証されるわけではありません。職業が安定していないと安心できない人はそうした職につけばいいと思います。ただ、安定的な企業があっても、そこでのあなたの身分が保証されるとは限りません。より相応しい人がいれば、その人に取って代わられるでしょう。それは職人の世界でも同じです。
特徴4 企業存続の義務がない
企業が利潤追求のノルマ、社員雇用のノルマ、給料の支払のノルマから開放されると、企業存続のノルマからも開放されます。ですから、衰退産業にしがみつく必要はありません。例えば、デジタルカメラの普及により、フィルムの需要は激減しました。このように、技術革新が進めば衰退産業が出てくるのは当然です。資本主義社会では企業は社員の雇用を担っているので、業態を変えてでもその会社を存続させなければなりません。富士フィルムなどは化粧品分野に進出し、成功を収めましたが、多くの衰退産業と呼ばれる企業は苦戦しています。
生体社会ではベーシックインカムが完備していますので、税金を投入して衰退産業を守る必要もなければ、社員を削減することも容易になります。社員の削減というと、資本主義社会では首切りとかリストラといった冷酷なイメージですが、生体社会ではそうではありません。仕事が1割減ったのなら、ワークシェアリングの考えで、みんなが仕事を1割減らしてもいいし、そろそろ別の仕事に移りたいなと思っていた人が移ってもいいですし、休暇を取ってもいいのです。職にしがみついたり、役職にしがみついたりする必要はありません。
私たちの身の回りにも、1回だけのプロジェクトのようなものがあると思います。そういったプロジェクトのために集められ、そのプロジェクトの達成後には気持ちよく解散するような企業形態も、企業から存続義務を取り除くことによって、容易になるはずです。
特徴5 税申告の義務がない
生体社会での税は自動的に漏れなく徴収されるので、申告のコストも、徴収のコストも限りなくゼロになります。したがって、経営分析のために経理をすることはあっても、申告のために経理をすることはありません。しかも、脱税しにくく、平等で公平なシステムです。資本主義社会では税を徴収するのに莫大なコストをかけています。動物の社会にも、人体のシステムにもない無駄でしかない労力です。それでも徴収漏れや不平等が多いのが現状です。
特徴6 社員に貢献する
人体の各臓器が身体全体のために貢献すると同時に、その臓器の細胞も生かし、大切にするように、生体社会の企業も社会貢献と社員への貢献を大切にします。社員への貢献は得た利益を社員に適正に分配するといった給与に関することだけではありません。社員の働きやすい環境をつくり、社員の心の拠り所となるような第二の家庭のような場をつくることを意味します。
資本主義の企業は利益を生み出すための組織ですので、厳しい営業ノルマ、足を引っ張り合うような出世競争、社員同士のいじめ、気の進まない接待、上司と部下との板挟み、長時間労働、社員を人としてではなく組織の歯車として扱うなど様々なストレスがあります。人生の多くの時間を過ごす職場がそのような状態で、人生が楽しいはずがありません。それに、私たちの社会は曲がりなりにも民主主義と呼ばれる社会ですが、企業の中に民主主義はあるでしょうか? 独裁国家のような企業、何代も世襲が行われる企業など珍しくありません。
利益のため、ノルマ達成のため、社員をなじり、馬鹿にし、叱り飛ばすような指導が平然と行われている会社もあります。「お客様を大切に」という名目で、お客さんを甘やかし、お金を払う方が偉いんだと勘違いさせ、その結果、クレーマーが多くの問題を起こしています。
資本主義企業の「お客様を大切に」は下心があります。無理に笑顔を作るのも、丁寧な言葉づかいをするのも、お世辞を言うのも、それはお客様にではなく、お客様が支払うであろうお金に対してのものです。それはお金に支配されている状態です。
お金本位の価値観で仕事をしている人は会社に心も身体も売り渡している人だと言えるでしょう。身売りをしているのと同じというか、心も身体も売り渡しているのですから、身売り以上でしょう。
お金にひれ伏し、上司にひれ伏し、取引先にひれ伏し、部下を怒鳴りつけ、自分が客の立場の時には店員を怒鳴りつける人は自分を持っていない、信念を持っていない、人と対等な関係を作ることができない人ではないでしょうか。私はそういう人間になりたくありません。
「教育のために部下には厳しく指導しているんだ」、「部下のことを思ってのことだ」と言う人もいるでしょう。あなたの部下は怒鳴らないとあなたの指示を聞かないのでしょうか? そうでもないのに、部下に怒鳴り散らしている人は、ストレスを発散しているか、他者と対等で互いに心地良い人間関係を築くスキルがないか、自分には人徳がないので怒鳴らなければ部下が言うことを聞かないと感じているのでしょう。
怒鳴って部下を従わせるという安易な方法に頼ってばかりいると、人徳(リーダーシップや尊敬)で部下を動かす努力を怠るために、人間的な成長が止まるかもしれません。また、部下は自分で最善の行動を考えるのではなく、上司に叱られるかどうかが判断基準になり、無難な事なかれ主義になったり、失敗を隠そうとしたりするようになるはずです。
話を戻しましょう。資本主義社会では、やりがいのある仕事をしている人もいますが、会社に務めている時間はお金のためと割り切って、つらい仕事に耐えている人も少なくありません。生体社会では会社が楽しく、充実した、達成感のある空間になります。
特徴7 企業を統制する
資本主義社会は市場経済ですが、共産主義社会は計画経済と言われるように、国家が生産や流通や分配を計画的に行います。共産主義は失敗したのだから、計画経済は間違っていて、市場経済が正しいのだと考える人もいるようですが、それぞれ一長一短があります。一般に市場経済だと考えられている資本主義経済ですが、完全に市場に任せるといたるところに弊害が生じるために、自由経済(市場経済)を前提として、国家がある種の経済活動を強制的、組織的に計画したり、規制したり、誘導したりしているのが現状です。それを一般に統制経済と呼びます。
1929年に世界大恐慌が始まりましたが、そういった中でも旧ソビエト連邦は計画経済政策によって、大恐慌の影響を受けなかったばかりか、経済発展をなしとげました。ただ、計画経済は物資が不足しているような時に有効に作用すると言われますので、現代の日本には向いていないと思います。
生体社会ではどのような経済政策を採用すべきでしょうか? ここで言う経済政策とは上記の「統制経済」とか「計画経済」といった広い意味での経済政策です。
その答えも私が示さないといけませんか? もうその必要はありませんね。人体のシステムに近いものを考え出し、構築すればいいのです。では、一緒に考えてみましょう。
資本主義社会は自由に起業することができます。勢いのいい業種、成功している業種があれば、次々と新しい資本がそこに参入してきます。そうして競争が生じるために、価格が下がり、製品やサービスの質が向上し、市場には多彩な商品があふれるというメリットが生じます。それらは資本主義のメリットのようですが、デメリットも多いことを忘れてはなりません。
これまでにも述べたように、競争をすると多くの無駄が生じます。一見、競争をすると商品の価格が下がりそうですが、販売競争、宣伝競争のために、販売員にかかる給料や経費、莫大な広告費が上乗せされるために、上手に企業を統制した方が無駄が減ることは予想されます。
生体社会では企業の統合と効率化を目指したいと考えています。人体の仕組みを考えても現代の資本主義社会での企業のような仕事の奪い合い、利益の期待できる分野への新規参入と利益になりそうにない分野や地域からの撤退は合致していません。市場経済は弱肉強食ですから、環境や資源保護という観点から市場を抑止することが難しいという側面もあります。ですから、市場経済に対しての何らかの規制なり統制する必要性は誰もが認めることではないでしょうか。その量の差の問題です。
私たちの身の回りには様々な業種があり、私たちの生活を支えてくれています。そして、その業種ごとに何社もの企業があります。コンビニエンスストア、携帯電話会社、保険会社、家電量販店、製薬会社、運送会社、不動産業者、銀行など、頭に思い描いてください。具体的な企業名がいくつも頭に思い描けるでしょう。
生体社会では自由に起業はできないようにしたいと考えています。つまり、コンビニエンスストアも携帯電話会社も原則として1社のみの独占企業体制です。
独占企業になるので、効率はいいです。莫大な広告宣伝費が節約できます。商品知識を持ち、その説明をする人は必要でしょうが、ノルマに追われる営業員は不要になります。私たちも煩わしい勧誘やセールスから解放されます。流通コストも削減できます。電気や石油の消費量も大幅に削減でき、環境にも優しい社会が実現します。単身赴任も激減するでしょう。このように、独占企業となることは非常に大きなメリットがあります。
しかし、独占禁止法といった法律があるように、資本主義下の独占には大きなデメリットもあります。その最大のものは独占企業が価格を自由に決めてしまい、消費者が高い価格を支払わなければならなくなることです。しかし、その心配は生体社会では無用です。上限があるからです。
それ以外に、独占企業になると、経営効率を高めたり、より良い製品を作ろうという努力を怠ると言われます。そういった側面は否定できませんが、私はそれほど心配する必要はないと思います。なぜなら、人には向上心があるからです。それに、生体社会は家事労働に近い側面がありますので、効率良く仕事を済ませれば、余った時間は自由に使えるようになるために、効率化の工夫は常になされると考えます。百歩譲って、経営効率が高まらず、技術革新が停滞したとしても、それに何の問題があるでしょうか? 私たちは十分に発達した文明の中にいます。何の不自由があるでしょうか?
資本主義社会では成功した業種や利益が見込まれる業種に多くの企業が参入します。そのため、コンビニエンスストアは何社もあり、激戦を繰り広げています。A社のコンビニのすぐ近くにB社のコンビニがあるというのも珍しくありません。他方で、採算の合わない田舎にはコンビニはありません。ちなみに、私の家から最寄りのコンビニまで車で10分以上かかります。
人体の仕組みは全体として統制がとれるように、構築されています。肺や腎臓が2つあっても、それらは争うためにそうなっているのではありません。
人体には交感神経と副交感神経があり、それらは拮抗していて、競争しあっているではないかという反論も予想されるので、それに対してお答えしておきます。交感神経と副交感神経は車で言うアクセルとブレーキのような関係です。車のアクセルとブレーキを同時に踏むことは無駄でしかありませんし、車にも負担をかける行為です。一見、車のアクセルとブレーキは矛盾しているように思うかもしれませんが、それは「安全に快適に目的地まで人を運ぶ」という目標に対してはどちらも協力的に働く必要不可欠な機能なのです。同様に、交感神経と副交感神経も人体の恒常性を保つ上で、必要不可欠な機能なのです。しかし、資本主義社会における顧客の奪い合いは必要不可欠な競争でしょうか? 私は違うと思います。
このように、人体は緻密にできています。資本主義の自由な市場にそのような緻密さはないと思います。
統合することによって、消費者にとっての利便性も向上します。自分にあった保険会社選びなど非常に困難です。全体の統制なしに自由に企業が乱立しますので、それらは市場の奪い合いをします。考えてみてください。もし、保険会社が1社しかなかったとしたら、社会全体でどれほどの労働力が不要となり、それに伴い消費されるガソリン、情報インフラ、電気、水、紙などの資源が節約されるでしょうか。私たち消費者も煩わしいセールスに時間を取られることもなく、見飽きたテレビCMを見せられることもなく、悪徳な業者に騙されることもありません。
このように企業が統制されたら、新しいことを起業したいというクリエイティブな若者の才能の芽を摘むことになって、社会全体にとってマイナスではないか、職業選択の自由はどうなるのかといった疑問も生じるでしょう。
資本主義社会でも職業選択は完全に自由ではありません。誰もがトップアスリートになれるわけでもなければ、人気女優になれるわけでもありません。東京電力に代わる電気事業者を勝手に起こすことはできませんし、勝手にテレビ放送局を開局することもできません。JA(全国農業協同組合)や電通のように、既に支配体制が固まっている業種もあります。そういった中で、生体社会はこれから新しく構築していく社会システムですので、クリエイティブな若者が存分に力を発揮できる社会となるでしょう。
企業が統制されても、共産主義とは違い、資本主義的な市場経済の原理が働きます。
脳はホルモンや神経の働きにより、身体の状態を知り、それに対して適切な指示を出します。出血により血液が減れば血液を作り、骨が折れれば骨を作ります。空腹になれば空腹を訴えて食事を摂るように、手足が連携して動き、食事を準備します。同様に、生体社会でも市場が需要と供給に応じて、必要な製品やサービスを提供します。
税の徴収と新システム下での税務署の役割
税務署は適正で公平な課税を実現するための機関だそうですが、それで公平な社会となっているでしょうか? 私は全国民、全世界の人は騙されていると思います。前にも説明をしましたが、税は利益の大小のみで決定され、収入を得るまでの過程や社会貢献の度合いに関しては全く考慮されません。労働問題や貧困問題を考える際に、同一賃金同一労働という目標のみが話題になりますが、それはせいぜい2~3倍程度の差でしょう。しかし、先ほど挙げたような格差はそれを遥かに凌ぐ格差があります。これを解決する方がより重要なのではないかと思います。
生体社会では税務署は不要となります。税理士も不要です。ですが、社会の不公平感をなくすという役割は必要なのかもしれません。企業が統合されるのでしたら、その中で不正が行われていないか、働かずに多くの給料を貰っている人がいないかなどをチェックする機関が必要なのかもしれません。各臓器の状態がモニタリングされ、自律神経(交感神経と副交感神経)によって、制御されているように。
生体社会になっても、できるだけ働かず大きな利益を得ようとする人はいるでしょうし、法の抜け穴を探す人もいるでしょう。ならば、それを是正するために、その仕事に必要な能力、困難度、社会貢献度、責任の重さなどを総合的に考慮し、適正な報酬額の算定やそれに基づく給与額の指導をするような仕事や組織が必要なのではないかと思います。
第3節 金融について
利子を取ることの禁止
生体社会では利子を取ってお金を貸すことを禁止します。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も本来は利子を禁止しています。ユダヤ教は同胞に対して利子を取ることを禁止していますし、キリスト教も中世末期の宗教改革以降は利子までは禁止されていました。イスラム教国では、イスラム教の教義に基づき、利子を取らないイスラム銀行が運営されています。(実際は利子を取るのと似たような仕組みとなっています。)
主要な宗教で利子を禁止しているのには何か理由があるのでしょうか。なぜ、利子を取ることが禁止されたのでしょうか。富める者がさらに富むことがずるいという嫉妬からなのでしょうか。恐らくそうではなく、利子という制度が引き起こす破滅的な状況を知っていたから禁止したのではないかと考えます。
利子を取ることによって、借りたより多くを返済しなければなりません。その分は他の誰かから取ってこなければなりません。通貨の総量が決まっている閉じた社会の中で、利子を取りながら貸し借りするならば、通貨の総量を増やさざるを得ません。この利子という仕組みが、経済成長をし続けなければならないという呪縛と富の集中を生み出しています。
1円を金利5%の複利で借りた時、1000年後にはいくら返済しなければならないでしょうか。計算してみると、14垓7268京4686億円にもなります。世界中のお金を集めて、日本に換算したとしても、このような額にはなりません。たった1円がここまで膨れ上がるのです。この増量分を補うために通貨は増え続けなければなりません。そして、この増加分は誰が負担するのでしょうか?
この金利という仕組みによって、社会に必要な商品やサービスを提供するといった具体的な貢献を全くしないにも関わらず、社会からは商品やサービスをごっそりと受け取る人の存在を許すことになるのです。
では、資金調達が必要な時はどのようにすれば良いのでしょうか。利子がないのにお金を貸してくれる人がいるでしょうか。
いくつかの方法が考えられます。まず、貸付額と同額もしくはそれ以下を返済してもらうという方法があります。仮に、減価率を月2%とした場合、3年で残高が半額になりますので、同額の返済でも、借りたい人がいれば貸したいという人は多いでしょう。
また、銀行のような企業を作り、その銀行が融資するという仕組みも考えられます。ベーシックインカムの一部を担保とすれば不良債権となることも少ないでしょう。
それに、公共施設などや公務員の人件費に税金が当然のように投入されるように、会社を起業したりすることは、社会にとってプラスになるので、その計画を精査した上で、税を投入したり、融資することは問題ないでしょう。生体社会での企業は利益の追求が主目標ではなく、社会貢献が主目標なのですから。
もちろん、利益が見込まれ、社員への給料も問題なく支払えると思われる企業に関しての起業時の資金融資などは言うまでもありません。事業計画書が議会で認められれば、融資を行えばいいでしょう。人体に照らして考えると、必要な臓器は作られますし、骨折しても回復しますし、出血してもその分は補われます。返却の必要はありません。というか、それらの器官が本来の役割を果たすことが恩返し、返済に相当するのです。
例えば、メイドカフェのような社会全体に必要というものではないけれども、一部の人にニーズがあるという店のような場合で、公的支援が受けられなかった場合は、資本主義のように事業計画を公表し、出資者を集めるという方法で実現できると思います。もしくは、公的支援の範囲を広げるという方法も考えられるでしょう。非合法でない限り、事業計画を吟味した上で、融資を認めれば問題ないでしょう。
資本主義での出資者は自分がそれに興味がなくても、儲かると思えば出資するでしょうが、生体社会ではその企業の内容に賛同する人、実際に自分が利用しようと思う人からの出資が多く見込めるのでしょう。
資本主義社会では、何らかの職に就かなければならないので、様々な業種が見出され、娯楽やサービスも広がりを見せます。共産主義のような統制経済ではそのような広がりはありませんが、生体社会は資本主義の要素も取り入れられているために、業種の広がりが予想されます。
資本主義社会での企業は利子の返済がありますので、なかなか黒字化することが難しいのですが、生体社会では利子がないので、黒字化経営は容易です。商品に金利分を上乗せする必要もなく、製品価格が低く抑えられます。その上乗せされた利子の分は全て投資家や銀行に搾取されます。搾取というと表現がきついですが、生体社会には投資家も銀行も消費者金融もないので、多くの製品の製造コストが減ります。
「資本主義社会では銀行にお金を預けておけば、雀の涙ほどとはいえ、利子がついてきたのに、そういった庶民の楽しみもなくなるんですね」という声を聞きました。そう考える人は利子という制度で自分は得をしていると勘違いしているのです。利子があるために、商品の代金が高くなっていることは説明しました。あなたがいただく雀の涙の利子よりもずっと大きい金額が全てのほとんどの商品に上乗せされているのです。ついでに言うと、莫大な広告費も上乗せされています。 そう考えると、利子という制度で得をしているのは、ごく一部の資産家だけだということが分かるでしょう。つまり、あなたは利子という制度のせいでむしろ損をしているのです。
株式や投資の禁止
証券取引所もなくします。日本一国だけなくすというのはこのグローバル化の時代に無理があるかもしれませんが、方法論はこの章の目的ではありませんので、ここでは割愛します。とにかく、バイオミメティック社会ではお金にお金を生ませる行為は禁止です。具体的な社会貢献をせずにお金を得ることはギブ・アンド・テイクでも、互助でもありません。特に資本主義社会ではウォール街の強欲な者たちが何ら具体的な社会貢献もせずに、そこで稼いだ莫大なお金で、人々が汗水垂らして生み出した製品やサービスを贅沢三昧に消費するのです。生体社会では仮に証券取引所が存続したとしても、貯蓄額の上限により、それほど酷いことにはならないはずです。
どうしてもマネーゲームで儲けたいというのなら、こうしてはどうでしょうか。そういう希望を持つ人だけでグループを作り、その中だけでマネーゲームを楽しむのなら、他の国民に迷惑が及びません。現代の資本主義社会では、先物取引などの影響が、そのマネーゲームの参加者だけへの影響では収まらず、何の関係もない一般庶民にまでその影響が及んでいます。彼らのせいで小麦粉の値段が高騰したり、ガソリンの価格が高くなったりするのですから、彼らの行為は犯罪的です。
第4節 情報について
情報の一元化
脳が情報を一元化するように、情報も一元管理する必要があります。一元管理とは一箇所で管理するという意味ではありません。水道、電気、ガスなどがインフラとして整備されるように、情報も私たちの生活に不可欠なインフラとなっています。ですので、日本国内の全家庭にくまなく光ファイバー網を敷設する必要があります。これは民主党の原口一博議員が総務大臣であった時に進めていた計画で、光の道構想と呼ばれていました。
その基盤ができた上で、情報を一元化します。各病院で保管しているカルテを日本中(もしくは世界中)のどこからでもアクセスできるようにします。そうすることによって、別の病院に移っても、引越ししても、その人にどのような病歴があり、どのような薬を服用しているのかといった情報が分かり、診療に役立ちます。
教育にも利用できます。重いランドセルを背負うこともなく、タブレットのような情報端末が教科書になります。動画での解りやすい説明で、理解が深まります。宿題もその端末に届きます。
全家庭が情報でインターネットにつながるので、一人暮らしの老人宅に医者が訪問しても、その人の情報が分かり、適切な医療処置ができますし、そこにお孫さんが遊びに来ても、そこで勉強も宿題もできます。
それだけでなく、情報の一元化により、私たちの検索の手間と時間が減ります。
資本主義社会では多種多様な企業が様々な商品を発売するために、商品を選ぶにしても、サービスを選ぶにしても、検索がたいへんです。情報が一元化されておらず、整理されていないからです。例えば、旅行に行こうとしても、旅行会社数社に問い合わせたり、ネットで検索したりする必要があります。まあ、それが好きな人もいますが、時間がかかることには間違いありません。旅行会社を比較するような会社なり、サイトがあれば問題ないと考えるかもしれませんが、そうしたサービス会社も数社できる可能性もありますし、直接的でないのでやはり非効率です。
広告専門組織の設立
企業の一元化と情報一元化により、広告宣伝費がほぼゼロになるというメリットもあります。資本主義社会では優れた製品が完成しても莫大な費用をかけて、それを広告宣伝しなければ会社も存続できませんし、商品を継続して作り続けることもできません。逆に、優れた製品でなくても、メーカーの知名度が高ければ売れる場合もあります。この時にかかる莫大な広告費用は商品代金に上乗せされます。もし全ての商品から上乗せされている広告料がなくなると、どれほど商品の価格が下がるでしょうか。私もこのアイディアを広めようとして苦労しました。いろんな出版社に話を持って行き、いろんな著名人にメールをして話を聞いてもらおうとしました。政治家にもアプローチしました。テレビ局にも意見を寄せました。経済的弱者を支援している団体にもアプローチしました。しかし、こういったまとまった内容をわざわざ時間を取って読んでくれる人はなかなかいませんでした。マスコミも政治家も知識人も、「みんなで考えていきましょう」とお題目のように言うだけで、実際に私がこうした具体案を提案しても無視され続けました。
結果的に、何の解決策も持たない知識人を集めて討論番組をするのですが、その中から決定的な解決策が出るはずもありません。ここまで読み進めていただいて、あなたが理解したこの理論が、短時間の討論番組の中から生み出されるはずもありません。そうした番組は単なる知的エンターテイメントでしかありません。彼らは統計的数字を伴う現状分析が上手で、既にある案に対しての批判が上手で、知的に振る舞うことが上手ですが、肝心の処方箋を示すことはほとんどありません。
もし、生体社会が実現していたら、このような苦労はなかったと思います。良い社会改革案、政策、企画ができたら、専門の機関に持って行き、所定の審査料を支払って審査をしてもらえば、真剣に目を通して検討してもらえるという仕組みにしておけばいいでしょう。新しい商品ができた時も同様です。審査料とか手数料を取ることによって、何でもかんでもそこに持ち込むことが防げるでしょうし、一体のレベル以上のものと認められれば、その費用を返却するようにしておけば問題ないでしょう。
つまり、広告会社を一元化して、営利企業としないことで、情報もお金と同じように、隅々まで循環するようになると思います。人体では情報伝達に神経やホルモンが使われ、ホルモンは血液と一緒に全身に運ばれます。
情報の無料化
貧しい国では食糧が不足し、餓死者が出ます。独裁者のせいでそのようになる場合もありますが、飢饉や災害が原因となり、食糧の絶対量が不足しているために、国民で分けあったとしても十分な食糧が行き渡らないといった場合もあります。しかし、情報はいくらでも複製が可能です。特に、デジタル化されたデータ、つまり、書籍、音楽、映画、プログラムなどはいくらでも複製可能です。ですから、絶対量が不足しているために、貧しい人が聴きたい音楽が聴けない、映画を楽しむことができない、本を読むことができないということはありません。それを縛っているのは法でしかなく、それをはば阻むのは、著作物を生み出した人やその流通に関わる人が利益を得なければならないという資本主義の理論だけなのです。
もし、それらに無料で誰でもアクセスできるようになったら、社会はどれほど楽しくなるでしょうか。美しい芸術作品をコレクションして自分だけでひっそりと鑑賞したいという人は新しい社会の住人としてふさわしくありません。ひとりで楽しむより、みんなで楽しむ方がずっと喜びが大きいという人が新しい社会にふさわしいのです。
生体社会では著作権の扱いが大きく変わります。プログラムは原則オープンソース化し、誰もが改変を加え、バージョンアップできるようにします。生み出された著作物は原則として全て自由にはんぷ頒布できるようにし、音楽も映画も誰でも自由に楽しめるようにしたいと思います。
それで優秀なクリエイターが育つのかという声が聞こえてきそうですが、その心配はいりません。優秀な作品に対して報酬を支払う方法はいくつもあります。
例えば、ランキングによって評価する方法も考えられます。ダウンロード数、評論家の意見、大衆の意見などを判断基準にして、ランキングを作成し、ランキングに比例して収入が多くなるような仕組みにすれば、モチベーションは維持できるでしょう。つまり、作家でも、ミュージシャンでも、良い作品を生み出せば所得が増えるし、人気のない作家はほとんど収入がないという資本主義と同様の現象が起こります。
ダウンロード数だけに頼ると高尚な作品よりも低俗な作品の方が利益になるという現象が起こるかもしれません。そういった場合は評論家による評価や賞を導入し、それに対して報酬を支払うようにして、是正すれば問題ないでしょう。
それに、クリエイターたちも消費者として自分以外の著作物に自由にアクセスできるようになることで恩恵も増え、自分の作品の質の向上にもつながることが期待されます。
もちろん、このアイディアも人体のシステムと合致しています。私たちの遺伝子情報であるDNAはデジタルデータのようであり、その情報は複製され、新しい細胞に受け継がれます。私たちの人体の設計図とも言える遺伝子情報は全ての細胞に惜しみなく含まれているのです。
第5節 議会について
議会の必要性
お金の減価分と上限を溢れた分が税として徴収されるということは既に説明しました。その税は行政機関が自由に使うわけではありません。税はベーシックインカムとして再配分されるほか、現代社会と同じように、社会全体の福祉としても使われます。つまり、道路、公園、上下水道などの整備、防衛、教育など多方面の使途があります。コミュニティが大きくなればなるほど、税収も増えてきます。その税をどのように使うかを行政機関が決めるというのは、迅速でいいのですが、民主的ではありません。したがって、税をどのように使うか、コミュニティ全体の運営をどのようにするか、ベーシックインカムの金額としてはどの程度が妥当かなどを民主的に決めたいと思いますし、その決定に私たちも関与できるようにしたいと思います。
そのために、議会が必要だということになります。人体の仕組みでいうと、脳にあたる器官です。では、どのような議会が望ましいのかについて考えてみましょう。
たとえ政治が悪くても、この経済システムのもとならば、政治が行うべき所得の再配分、失業対策、生活保護、年金制度などがうまく機能するので、資本主義社会よりもずっとマシなものになると私は考えています。しかし、それに甘えることなく、より良い政治を目指し、今の日本の政治システムを他山の石として再考してみましょう。
今の間接民主制はうまく機能していません。確かに、中国のように選挙がない一党独裁の国家や、選挙があってもけいがいか形骸化している民主化が遅れている国々から見れば、日本のような公正な選挙システムがある国々は憧れでしょう。また、人類が歴史を通してその権利を勝ち取ってきたことは誇るべきことでしょう。
しかし、今の日本を見て、政治に民意が反映していると言えるでしょうか? 国民の大多数は国会議員の定数削減を望み、政治家や役人が無駄遣いをしないことを切に望んでいます。しかし、その大多数の声は届きません。政治家は自分の利益になる方向に、票が集まる方向に、陳情を熱心にする企業の方向に向きがちです。テレビメディアの前では全ての政治家が無駄の削減を訴えますが、一向に実現しません。これだけ民意が反映されない社会が民主主義国家と言えるのでしょうか?
投票権があるということで、「政治に参加しているのだ」、「社会を変えることができるのだ」とごまかされて、実は何も変えることができず、政治家や役人の思い通りにされています。もしかしたら、私たちは国民主権で選挙権があるということで、うまくごまかされているのではないかと疑ってしまいます。
議員の選出方法
今の政治家は職業化していて、自分の職を賭して正しいことをする政治家が少なくありません。当選回数の多い議員や年配の議員は特にそういった傾向があり、残念ながら、彼らが実権を握っています。霞が関(キャリア官僚の本拠地)でも同様の傾向があると思われます。こころざし志が高く、政治家としての資質もある人が政治家になってより良い社会をつくりたいと願っても、その理想を実現するためには、選挙で当選する必要があります。一般の人が選挙で当選するためには、仕事を辞める必要もあるし、莫大な選挙資金も必要です。逆に、政治に関心がなく、特に実現したい政策がない人であっても、テレビで顔なじみの有名人ならば当選することも珍しくありません。政治に関心がない有名人、知識もないタレント、三バンを持つせしゅう世襲議員など、彼らの弊害は甚だしいのですが、彼らが当選するのは私たち有権者の責任でもあります。ちなみに、三バンとは親から受け継いだ後援会組織の「地盤」と親の知名度、七光りを示す「看板」と親から無税で受け継いだ選挙資金を示す「カバン」のことを言います。
選挙は公平なシステムのように思うかもしれませんが、政治に関心のないいい加減な有権者と、この文章を読んでくれているあなたの見識ある有権者とが同じ1票しか与えられず、多数決の名のもとに同じ舟に乗らなければならないのは悲劇です。自分の理想を実現する可能性を限りなく狭められていながら、それでも1票というごく僅かな可能性を根拠に、国民が選挙で選んだのだからあなたにも責任があると言われます。私たちはこうした選挙システムにも疑問を持つべきではないでしょうか。
では、生体社会での議員の選出方法について、私のアイディアを説明しましょう。生体社会では議員に立候補するためには、資格試験をパスする必要があります。一般常識、筆記試験、面接などで、議員としての資質があるかどうかを判断し、それに合格しないと議員になれないという仕組みです。そうすることによって、議員の最低限の資質が担保されます。その試験によって、議論するのに必要な知識の有無をチェックするとともに、議論することを目的化しない人、自分の意見に固執せず、他の人の意見にも耳を傾け、その方が優れたものであったら素直に認めることができる人、善良な志を持った人、私利私欲のために議員活動をしない人、これらの人徳的な資質も可能な限り面接などで見極めたいと考えています。
その試験をパスしたら、議員に立候補する資格ができ、さらに選挙をして...と言いたいところですが、私はそういう流れは考えていません。試験にパスして、公のために議員をやる気がある人は全員議員として活動してもらいたいと考えています。つまり、選挙はしないということです。
選挙で選ばないと言うと民主主義の根本理念を覆すようですが、考えてみればこれは直接民主制に近いとも言えます。何しろ、選挙資金がなくても、知名度がなくても、やる気と資質さえあれば、誰でも政治に参加することができるのですから。
しかし、試験にパスするだけの才能がない人に、政治に参加する権利が全くないというのは民意を反映していないのではないかという声が聞こえてきそうです。確かに一理あります。選挙制度でしたら、知的障害者であっても、年齢などの条件を満たせば、投票権があります。それに反駁してみましょう。
生体社会を円滑に運営し、その社会の全ての人が幸せになるような法律を作ったり、社会を運営したりすることが政治だとすると、それは企業の経営に似ていると言えます。で、企業の経営は社員全員が行うかというと、商品を生産する人、営業をする人、経営に携わる人といったように役割分担がされていて、管理職である経営陣のみが経営に携わります。会社の命運左右するような決定事項を全社員に同じ1票を与えて決定するという会社は聞いたことがありません。
この反駁で納得しましたか? 納得してはダメです。私がさんざん否定してきた企業のシステムを根拠に反駁したのですから。
再度反駁します。人体では脳が司令塔となります。脳細胞は司令を行う機能を備えています。司令を行うスキルが備わっていると言ってもいいでしょう。ですから、議員もそのスキルが証明された人が議員をすべきだと考えます。
別の反駁として、その問題を解決するには、リコール(解職要求)制度を整備しておけばいいと考えられます。つまり、一定量以上のリコール票が集まればその政治家を辞めさせることができるようにすれば、恣意的に政治をする人を排除できそうです。いわば当選させるための選挙をするのではなく、落とすための選挙をするのです。最高裁判所裁判官の国民審査と同じですが、この制度を導入するのならば、国民審査のように形骸化しないようにする必要があるでしょう。
そう考えると現代の民主主義における選挙は再考する必要があるような気がします。特に現行の選挙制度などは馬鹿馬鹿しすぎます。莫大な費用がかかるし、選挙期間中はインターネットで政策を訴えることが制限されていますし、選挙カーでも政策を訴えることはできないので、名前の連呼しかできません。(停止した車上では演説は可能です。)この状況は、もはや選挙ではなくて、議員の就職活動になっています。
自分にやる気があり、その能力や資質を身につける努力をするならば、必ず議員になることができ、自分の考えを有権者に示すことができるこのシステムの方が本当の主権在民の姿ではないでしょうか。
ちなみに私は、選挙は棄権せず必ず行くようにしています。それは、選挙権は歴史を通して人類が多くの血を流しながら勝ち取ったと尊い権利であり、私たちはそれを軽んじてはならないと思うからです。若者の投票率が低いのも残念に思いますが、政治に無関心な人に無理に投票に行かせて、資質のない人が当選するよりは、投票率が低い方がいいと思うので、若者に「投票に行け」とは言いません。そもそも政治に関心がある若者は投票に行くでしょうし、「選挙に行け」といってやっと行くような人は政治に関心がないのでしょうから、そういった人の票が悪影響を及ぼすのは避けたいからです。
ある若い知識人がテレビ討論番組で、「政治には関心があるが、誰にも投票したくないから選挙に行かない」と言っていましたが、それなら白紙を投票しに行くべきでしょう。
議員の報酬
試験にさえパスすれば、議員になりたい人は全員なれるというと、「そんなことをしたら、税金の無駄だ!」と心配する人もいるでしょう。でも、それは心配いりません。報酬は純粋な必要経費以外に、歳費(国会議員の給与)や給与はごく僅かしか支給しないようにするからです。「それだと優秀な人材が集まらない」と言うかもしれませんが、本当に志がある人なら、お金のためにではなく、真剣に取り組むはずです。つまり、議員としての収入だけでは生活ができないので、職業としてではなく、他に仕事を持ち、社会生活をしている人が議員として活動する方が、自分の信念に従って活動できると考えられます。実際に、世界の趨勢は、議員の給与は無報酬か低報酬です。それなら議員の数が多くても一向に構いません。話がそれますが、できるだけ多数の民意を汲み取りたいのでしたら、現行の選挙制度や議会制度も以下のように改良すればいいと思います。ちなみに、この案は私のオリジナルではなく、日本新党の田中康夫氏がテレビで言っていたのと同じ内容です。
私は田舎に住んでいますが、人口約16000人で町議会議員数が16名です。条例で議員数を法律の上限の22人から16人に減らしていることは評価できますが、まだ無駄と感じる事業も多いですし、談合が疑われる落札率での工事も行われているようです。
そこで、議員を減らす方向ではなく、議員を増やす方向で検討してみるとどのようになるでしょうか。例えば、議員の給与を10分の1にする代わりに、議員定数を100人にする。そうして、町を良くしたいと願う主婦も、パートのおばさんも、自営業者も、サラリーマンも、建築業者も、八百屋さんも、やる気がある人はみんな立候補してもらえばいいのです。みんな職業を持っているのですから、議会は土日や平日夜に開くといいでしょう。議員数が多くなるのですから、選挙も1人1票ではなく、1人が3~5票ぐらいの複数投票ができるようにすれば、人間関係のしがらみのある人に投票せざるをえなくても、他の志のある人にも投票できます。逆に、影響力はあって私利私欲で政治をしようとする人の当選は難しくなることが予想されます。なぜなら、候補者1人に対して、最大1票しか投票できないようにしておけば、悪徳候補者とステークホルダー(利害関係者)が組織票を持っていても、全体の票数が多くなるために、必要得票数が高くなり、結果的に落選することになるからです。それに、議員の数が多いと、議会で悪徳政治家の意見は退けられる可能性が高くなるはずですから。
議員の仕事と議会の概要
議会も現行の社会のものとは違った形にした方が良いと思っています。i) 専門部会制
国会では全ての議員が全ての審議に参加します。防衛問題に関しての知識も関心も薄い議員にも、それを真剣に学び、研究し、検討してきた議員にも同じ1票が与えられます。そういった審議のやり方で本当に良い国ができるのでしょうか。その1票は本当に平等と言えるのでしょうか。
「政治家が馬鹿だから官僚に思い通りに操られる」という人がいます。確かに官僚は優秀ですが、その優秀さを使う方向性が間違っているようです。国益よりも省益を優先し、自分の利益を優先する人も数多く見られます。政治家も優秀です。異論がある人もいるでしょうが、ほとんどの政治家は「政治家は馬鹿だ」と批判している人たちよりも優秀でしょう。それでも官僚にいいように操られてしまうのは、官僚はそれを専門としているのに対して、政治家はそれを専門にしていないことが原因の1つではないでしょうか。
野田内閣の一川防衛相は記者団の質問に、「安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」と発言しました。この発言に自民党の石破茂政調会長(元防衛相)は「その一言をもって大臣解任に値する」と批判しました。当然です。一日警察署長を務めるタレントを選ぶのとはわけが違います。本当に日本の国防を考えるならば、党が違っても石破氏を任命するぐらいの覚悟を持って欲しいですし、同じ民主党から選びたいのなら、長島昭久氏のような素人ではない人を選ぶべきです。
ついでに言うと、シビリアンコントロール(軍人ではない文民の政治家が軍隊を統制すること)の方が良いと考えている時点で認識不足だと思います。ヒトラー、レーニン、ムッソリーニ、毛沢東、彼らは皆、文民でした。
話を戻しましょう。生体社会では議員は専門部会の議員ということにしたいと考えています。社会保障検討委員会の議員とか、企業振興委員会の議員といったように、そのことに関心があり、その方面の知識がしっかりしている人だけで話し合い、決定するようにした方が良いと思うからです。そうすることによって、議員の負担も減り、議員の職業化も回避でき、より建設的な審議が可能となると予想されます。
議員になるのに認定試験をパスする必要があるという考えを先に示したが、その試験も議員全員に共通する部分と専門部会に必要な知識を問う部分に分けることを想定しています。
さらに議会(専門部会)の審議内容は全てネット上に公開して、誰がどのような意見を述べ、最終的にどのような結果になったか、投票行為を行ったかが分かるようにします。国会議員は誰しもテレビメディアの前では良いことを言います、それが実現しないのは、無記名投票が原則という国会の仕組みにもよるのではないでしょうか。実際、テレビでは「議員定数削減」に是という議員がほとんどなのに、実際にはなかなかそれが実現しないというのも、そういった投票行為の不透明性が原因だと思われます。
また、国会で全てを決めるので、優先順位の高い法案が取り上げられ、優先順位が低いと思われる法案は後回しにされます。憲法改正案なども必要だと考える人が多いにも関わらず、後回しにされがちな議題です。しかし、専門部会制ならば、並行して審議が進みますので、現行の国会に比べて非常に効率的です。
専門部会がそれぞれ決定するのなら、全体としての調和や調整はどうするのでしょうか。「最適な部分の組み合わせでできた全体が最適であるとは限らない」という問題はどうするのでしょうか。各専門部会での議決を実施するために必要な経費が予算を上回った場合にはどのように調整すべきでしょうか。
しかし、そういった問題も人体のシステムに立ち返って考えると、答えが見つかるかもしれません。脳は様々な機能に分担されていることはご存知でしょう。左脳と右脳の働きは違いますし、視覚を司る部位、聴覚を司る部位、記憶を司る部位といったように分かれています。そのことは、ブロードマンの脳地図として知られています。
そう考えてみると、この専門部会制というアイディアは人体のシステムに準じているということで、上手くいく可能性が高いだろうと予想しています。今後も脳科学の見地からより良い議会システムを構築したいと思います。
ii) 議決は多数決に頼らない
多数決は民主主義の基本だと言われますが、敢えて私はそれを否定します! 多数決を完全否定するわけではありませんが、安易に多数決で決めるのは考えものです。
国会での多数決の議決はうまく機能しているでしょうか。
多数決で意見を集約する前提として、一人ひとりが議決を拘束されず、自由に意見を述べ、意思表示をすることが保証されていなければならないと思います。しかし、実際は党や派閥の意見に逆らうことはできません。国会で討論によって新たな合意が形成されるということは皆無で、既に各党での考えは決まっています。決まっていない場合は国会の審議中にもめるのではなく、その前の根回しの段階でもめているのです。
結果的に多数決による議決になるので、結局は多数党の意見が反映されます。過半数を占める党があれば、善し悪しに関わらず、その党の意見が国会全体の意見になります。
ではその党の意見はどう決まるのでしょうか。それは最大派閥の意見で決まります。では、その最大派閥の意見はどのように決まるのでしょうか。それはその派閥の主要メンバーの意見が強く反映されます。結局は多数党の最大派閥の長の意向が最も強く反映されるという仕組みとなっています。極端かもしれませんが、このような仕組ですと、多数決という名の独裁も可能です。ヒトラーのナチスドイツは、民主主義の手続きに則って独裁政権を樹立し、ユダヤ人の大量虐殺をしたことを私たちは忘れてはなりません。
では多数決が適切に機能する議会ならば最適な議決がなされ、人々が幸せになるのでしょうか。
私は多数決で決定するのにふさわしい議案とそうでない議案があるように思います。夏休みの家族旅行の行き先などは多数決で決めればいいでしょう。しかし、多数決で決めるのにふさわしくない議案が単純に多数決で決められるのは危険です。専門家の1票と門外漢の10票ならば専門家の1票を信頼した場合がいいでしょう。
福島の原発事故では、現場の吉田所長がテレビ会議での本店からの指示を無視し、注水を継続していました。国会で、「注水を停止すべきではないのに注水停止を指示したのは誰か」、という責任追及がありましたが、実際は現場の吉田所長判断で注水が継続して行われていました。この場合、多数決から言っても、指揮系統から言っても、注水が停止されるはずでした。しかし、それを無視した現場の判断が結果的には正しく、それによって最悪の事態は免れたのです。
吉田所長はテレビ会議の場で反論しなかったそうですが、現場が分からない人たちに言っても無駄だと思ったのか、「指示には従えない」と突っぱねて自分が解任されたら、注水が停止されてしまうと判断して、指示に従うと嘘をついたのだろうと思います。我々は気骨のある吉田所長の判断に助けられました。これは、畑違いの多数決より専門家の1票の方が正しいという例です。
似たようなことは枚挙に暇がありません。ヒット商品の裏話で、「実は社内の誰もが反対したにも関わらず、それを押し切ってやったら大ヒットになった」といったような話は数多くあります。例えば、一世風靡した「ウォークマン」などは「こんな録音機能のないテープレコーダーなんて売れるはずがない」とソニーの社内では大反対だったそうですが、当時の経営者である盛田昭夫氏はそれを押し切って発売し、日本のみならず、世界的な大ヒット商品になりました。
画家が生前にはあまり評価されなかったのに、死後になって高い評価を得るということもしばしばありますが、これなども多数決が正しいとは限らないということを示していると言っていいでしょう。
私のように多数決に疑問を持つ人は稀で、大多数の人は議決は多数決によるべきだと考えています。しかし、そうした多数決信奉者であっても、多数決によらないで決定を下している場面にはしばしば遭遇します。しばしばサイレントマジョリティ(silent majority, 物言わぬ多数派)よりもノイジーマイノリティ(noisy minority, 騒々しい少数派)の意見が採用されるのはそのせいです。
誤解のないように言っておきますが、私は決して多数決を否定しているのではありません。「安易な多数決は危険である」と言いたいのです。議案は熟議による合意で決定するのが望ましく、熟議の結果どうしても意見がまとまらない場合にのみ多数決を行うのが良いのではないかと考えています。また、必要であれば公開討議を行い、全てを傍聴した第三者の投票による決定というのも有効ではないかと思います。残念なことに、自分の意見を変えたら負けだ、人に説得されたら負けだと、偽りのプライドに支配されている人もいますので、そうした人には注意が必要です。多数決を有効に機能させるためには、自分の利害を重視したり、自分の意見に固執したりしないようにすべきです。
iii) 党議拘束なし、審議内容や投票を透明化
生体社会の議会には党が存在しないので、党議拘束は当然ありません。意見の近い人でグループができるかもしれませんが、それも人と意見をしっかりと分けて考える必要があります。そうした当然のことが国会議員も地方の議員もできていなくて、悲しくなります。たとえば、民主党の小沢一郎氏は政界に大きな影響力を持つと言われますが、議員一人ひとりが自分の意見、理想、志を持っているならばそういったことはあり得ません。日本人は意見の違いと人間関係の親密さを結びつけて考える傾向があります。自分の意見が否定されているのに、自分自身が否定されていると感じたり、他者の意見を否定することが、いつの間にか、その人自身を否定していたりします。考えが同じ部分に関しては協力する。そうでない部分に関しては徹底的に議論する。議論に人間関係を持ち込まない。これらが議員の資質として必要だと思います。
それと同時に、審議内容の透明化、可視化も必要だと思います。公共事業でも、それを誰が許可したのかが不透明です。最終的には自治体の長がゴーサインを出すのかもしれませんが、そうなる経緯が見えないので、誰に責任があるのかが分かりにくくなっています。審議の過程を透明化することは現行の社会でも簡単なはずです。
生体社会での議会は議事記録を含めて、音声や動画も公開し、誰でもアクセス可能にすべきだと考えています。もちろん、国レベルでこの生体社会システムが採用されるような場合は、防衛機密に関する審議内容などは当然除きます。
iv) リコール制度
審議内容をオープンにすることで、不適格と思われる議員を見つけることができます。ですが、その議員をリコール(解職要求)することができなければ、そのようにした意味がありません。
どのようなリコール制度にするかは議論の余地がありますので、広く意見を求めたいと思います。ただ、現行社会のような、膨大な署名を集め、それを審査するといった非常に手間と経費がかかるシステムにはしたくはありません。かといって、あまりに安易になりすぎても問題があるでしょう。
日本では政治家がめまぐるしく変わります。マスコミがその気になれば何とでもなりますし、官僚が政治家を陥れることも可能です。失言が原因で辞任する大臣も多いですが、その発言の文脈や前後の言葉を吟味してみれば、特に問題があるとは思えないことも多いですし、問題がある場合でも辞任するほどのことはないこともあります。大衆はマスコミの言葉狩りに踊らされがちなので、注意しなければならなりません。しい恣意的に世論を操作しようとするマスコミに替わるマスコミも生体社会には必要だと考えます。
前に述べたことと重複しますが、選挙制度に替わるものとして、不適格だと思う議員に対して罷免を要求することができる仕組みがあればいいのではないかと思います。
議員の仕事と望ましい議員像
生体社会の議員の仕事はその部門の専門的知識を養い、それを社会全体の福祉の向上に資することが役割です。しかし、政治家や知識人が出演するテレビの討論番組を見ても、虚しい気持ちになることが少なくありません。それは自分と意見が違うからではなく、彼らが代替案を持っていないからです。専門的知識を持たないコメンテーターの言葉は当然でしょうが、専門家も代替案や具体案を持っていない場合が少なくありません。「政治家がしっかりすべきだ」とか「経済成長が必要だ」といった結論にほとんど意味はありません。テレビやネット上の政治番組や討論番組を見ても、長々と時間をかけて対談した結果が、結論は「政治がもっとしっかりすべきだ」とか「みんなで考えていこう」というのでは、意味がありません。知的で著名な人たちが議論を戦わせるのを娯楽、つまり知的エンターテイメントとして見るならば、興味深い情報も得られますし、楽しめるのですが、社会の変革に繋がる具体案が提示されないことには意味がありません。
政治討論番組でも必要なのは具体策なのです。賛否両論あるでしょうが、私にはこのバイオミメティック社会論という具体策があります。単なる思いつきでなく、4年ぐらい前から温めてきて、少しずつ改良してきたアイディアです。自分に具体策がないのでしたら、まずは具体策を持つ人の意見を素直に聞き、それを検証する方がよほど有益なのではないでしょうか。
政治家のリーダーシップについて
日本の政治家はなぜこうも無能な人が多いのでしょうか。税金泥棒と呼ばれても仕方のない人が少なくありません。私はその原因は個人の資質にあるのではなく、大部分はシステムそのものにあると考えています。テレビドラマJIN-仁-(原作は漫画)で、南方先生が江戸時代の人から見れば神業ともいえる手術をすることができたり、ペニシリンで感染病を治したりできるのは、その時代の人が持たない医学の知識を持っているからに他なりません。ニュートンが発見した微分や積分を今は高校生が普通に理解しています。オリンピックで金メダルを取るぐらい運動神経が優れた体操選手でも、初めて卓球をしたなら、卓球部の補欠選手にもかなわないでしょう。
何を私が言いたいかというと、いくらこの政治家はしっかりしているし、頭も良いから、きっとリーダーシップを発揮してくれるだろうと期待しても、知識の裏付けがなければ、きちんとしたリーダーシップ論をみっちり学んだ凡人にもかなわないだろうということです。「あの政治家にはリーダーシップがない」という人に尋ねてみてください。「具体的にリーダーシップがある人というのはどのような資質を持つ人のことだと考えているのか」、「そもそもリーダーシップとは何か」と。多くの場合、それが分からないまま、曖昧なまま批判しているのではないでしょうか。
理論よりも経験を重視する人もいます。もちろん、経験は必要ですが、私は経験以上に技術とか学問的な裏付けの方がより必要だと考えています。子供をたくさん育てた人は子育てに詳しいかもしれませんし、教師歴の長い人は子供の教育が得意かもしれません。しかし、そういった人よりも、きちんと育児学や指導学を学んだ人の方がよい教育ができると私は体験から感じています。
生体社会で、内閣総理大臣のように全体を掌握する役割を担う人を選ぶのでしたら、その人は専門部会での議員が必要とする資格のように、リーダーシップ学(統括学? 帝王学?)のような知識や技術を持っていて、それが認定された人でなければならないと考えます。「技術」重視と言うと、愛だとか信念だとか誠実さだとかやる気といったことを否定するように捉えられがちですが、そうではありません。愛だの信念だのと客観視できないものに頼りすぎると、努力が疎かになりがちです。勉強しない言い訳にそうした言葉がしばしば使われます。理論と実践のかいり乖離には注意が必要ですが、経験だけではなく、基礎となる理論が必要です。
政治家になくて、官僚にあるのは専門知識です。政治主導が実現せず、政治家が丸め込まれるのは専門知識がないということが最大の要因でしょう。要は、政治家に、習得可能で継承可能な知識や技術を身につけさせることが必要で、そうした具体的な知識や技術を構築することが必要だと私は考えています。
第6節 生体社会での社会保障制度について
日本は安心して暮らせる社会でしょうか。安心して暮らすのに必要な社会保障制度はどのようなものでしょうか。年金などはこのままでは破綻するのではないかと多くの人が思うほど制度的にも危なく、しかも非常に不公平なものとなっています。そうした日本の社会制度を他山の石として、生体社会での社会保障制度はどのようにあるべきかを考えてみましょう。ベーシックインカムについて
ベーシックインカムにより、生活保護、年金、子ども手当、失業保険などが廃止になります。ただ、障害者への手当など、より多くの援助を必要とする支援は存続します。保険制度について
私たち一人ひとりが安心して生活するために、保険という仕組みが考えられました。私たちの身の回りには医療保険、自動車保険、地震保険、旅行保険など様々な保険があります。それも一元化することによって、効率良く、負担が少なくその運営ができます。個人が社会全体のために貢献するのですから、社会は個人のために奉仕すべきです。ですから、病気や事故などがあった時には、社会全体でカバーすべきだと思います。そのような助け合いによって、みんなが安心して暮らせる社会が実現するはずです。
とはいえ、生体社会でも才能や仕事量によって、豊かな人や慎ましい生活しかできない人がいます。豊かな人はより大きな保証が欲しいと思うのも当然です。ですから、生体社会の保険制度は全ての人に適用される無料の組み込まれた保険と、オプションで加入したい人が加入する有料の保険と、大別して2種類の保険制度があればいいと思います。
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